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    <title>ノートルダム橋</title>
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    <published>2009-03-06T14:12:02Z</published>
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        <![CDATA[<img alt="pont_ND1_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/pont_ND1_t.jpg" width="480" height="179" />

前回みたアルコル橋の約180m下流に架かっている一見地味なつぎはぎの橋。ここは古代から人々がセーヌ川を渡っていた場所である。右岸と左岸をつなぐパリで一番古い通りがシテ島の真ん中を走っている。その名もシテ通り、その両端はセーヌ川に出て、そこから反対側の岸に出る二つの橋を、川幅の大きさによって区別し、右岸に渡る橋をグラン・ポン（Grand Pont：大きい橋の意）、左岸に渡る橋をプティ・ポン（Petit Pont：小さい橋）と呼んでいた。どちらもパリで一番古くから橋が架かっていたところである。

<img alt="cite_s.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/cite_s.jpg" width="190" height="190" />

ローマ人がグラン・ポンと呼んだ橋は、ノルマン人の攻撃によって886年に壊されてしまう。そのあと、そこに板の橋が架けられ、ミルブレーの板橋と呼ばれて親しまれた。1406年の洪水で流されるまではそれで間に合っていたのだから、中世の牧歌的な様子が想像できるというもの。そして、1443年、シャルル6世の時代に、中世の橋はみなそうであったように住居つきの、長さ106m、幅27mのりっぱな橋が出来上がり、ノートルダム橋と呼ばれることになる。が、この橋は木製でその上に60軒もの家屋が建っていたため、長持ちはしなかった。1499年10月25日、橋の上の家が次から次へすべて川になだれ落ちてしまう。当時、大工たちの再三の忠告に耳を貸さなかったパリ市長と市長補佐は、この惨事を引き起こした責任を負わされて投獄、終身刑となった。

<img alt="pont_ND2_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/pont_ND2_t.jpg" width="480" height="480" />

次の橋は石で作られる。イタリアはヴェローナ出身の建築家ジャン・ジョコンドが設計を請け負い、1507年、6径間のアーチ橋が完成した。長さ124m、幅23mとさらに大きくなった橋の上には向かい合わせに34戸の家が建ち並び、フランス王家の紋章や男女の彫刻で飾られた豪華なファサードには金の番号がふられた。片方が奇数、もう一方が偶数と、現在パリのあらゆる通りで見かける番地のシステムがこのとき初めてできたのだ。ルイ14世の王妃マリー＝テレーズを迎えるため1660年に改装されたノートルダム橋には、大聖堂に向かう王族の行列を見ようと折あるごとに群衆が詰めかけ、1786年に壊されるまで、パリのもっとも粋な場所として賑わった。

<img alt="rankan_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/rankan_t.jpg" width="480" height="640" />

その後、オスマン男爵のパリ改造計画により1853年に5径間の橋が架けられたが、島と岸の間の水がアーチの下でさらに狭く分かれるためか、35回もここで水難事故が続き、もとは「聖母マリア様の橋」という意味にも関わらず、皮肉にも俗名「悪魔の橋」と呼ばれるようになってしまう。そこで、真ん中の三つのアーチを一つにする計画が練られた。右岸側とシテ島側の両側のアーチはそのままで中央だけが金属製の橋が1919年に完成する。長さ105m、幅16m，真ん中のアーチの幅が60m、これが現在の姿である。

<img alt="_bacchus_s.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/_bacchus_s.jpg" width="190" height="190" />

古いアーチにはバッカスと雄羊の頭の装飾が施され、右岸側のアーチの下は河岸自動車道となっている。中世の橋に古代のオーナメント、それにつながる近代の鉄橋、そこを走る現代自動車道…奇妙な時間の混ぜ合わせ…。

<img alt="pont_ND_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/pont_ND_t.jpg" width="480" height="325" />

さて、この界隈は知れば知るほど興味深いところでもある。まず、ノートルダム橋の右岸側にはサン・ジャック（聖ヤコブ）の塔がある。16世紀にこの地に実存したサン・ジャック・ド・ラ・ブシェリー教会（l'église Saint Jacques de la Boucherie：ブシェリーは肉屋の意、肉屋の集会所および埋葬場所だった）が1797年に取り壊されて鐘楼だけが残ったもの。17世紀にパスカルがこの塔で気圧の実験を行った。また、ここは中世スペインの聖地コンポステッラを目指す巡礼人々の出発点だった。ずいぶん古い映画だが、ルイス・ブニュエル監督の「銀河」（’69）はやはり聖地に向けて巡礼の旅に出る二人の男の話。かなり宗教的な隠喩を含むシュールな内容だった…。

<img alt="sant_jacque_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/sant_jacque_t.jpg" width="480" height="360" />

サン・ジャック塔はパリ市が買い取ったものの、何十年もの間、汚れ放題に放置されたままだったが、2001年頃から修復する話になり、最近ようやくお化粧直しが終わったところ。パリに20年以上住む人でも見たことがないというサン・ジャック塔の白くまぶしい姿が公開された。その繊細なレースのような美しさを見ると、ここが「不吉な場所」になっていたのが不思議でたまらない。
純白の塔を背にして巡礼が歩いた始まりの道をいく。

<img alt="hashi_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/hashi_t.jpg" width="480" height="253" />

ブキニストのいるジュスヴィル岸からノートルダム橋を渡ってシテ島に向かうと、左手の視界を大きく遮るのが、オテル・ディユー（Hôtel Dieu：神の家の意）病院だ（Vol.0036/2009年1月参照）。中世からの病院はじつに質素で、これと言って取り柄も色気もない箱形、しかも橋から見えるのは黒ずんだレンガの後ろ姿のみ。都市計画のお偉いさんがこれを取り壊して観光客向けのものにしたい気持ちはよくわかる。が、病院関係者は断固として反対、いつもお流れになるらしい。有名デパートサマリテーヌだっていまだにずっと閉鎖中だし（Vol.1/2005年8月参照）、お金儲けだけを優先しないところがこの国のいいところかもしれない。橋を渡りきると右手に花市が広がり、その先にはパリ警察庁が居を構えている。いかめしいところに花があふれていて救われる。

<img alt="brocant_s.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/brocant_s.jpg" width="190" height="190" />　<img alt="hana1_s.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/hana1_s.jpg" width="190" height="190" />

<img alt="hana_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/hana_t.jpg" width="480" height="355" />

左手の重苦しいHôtel Dieu病院の壁がようやく途切れると、ぱっとノートルダム大聖堂広場が開け、その奥にカテドラル正面が見える。このまま続けて行くとプティ・ポン、次の橋となる。それを渡ると、にぎやかなカルチェ・ラタンだ。
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    <title>アルコル橋</title>
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    <published>2009-02-07T03:44:38Z</published>
    <updated>2009-02-07T04:08:35Z</updated>
    
    <summary>Vol.0037</summary>
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        <![CDATA[<img alt="Arcole_2_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/Arcole_2_t.jpg" width="480" height="197" />

22年前、わたしのフランス上陸第1日目。朝6時半に空港に着き、迎えに来てくれたフランス人の友人に連れられて一番に来たのが、シテ島のノートルダム広場だった。田舎から出てきた彼女にとってもパリは未知の街なのだった。ノートルダム（我らが貴婦人）すなわち聖母マリア様の名を冠した教会はフランス各地にあるけれど、シテ島内にあるこの建物は1163年に着工、1345年に竣工された、パリでもっとも古い大聖堂である。真冬だったので真っ暗な中、カフェで時間をつぶし、夜明けとともに（といっても8時半ごろ）カテドラル内部を見て、脇の小さならせん階段を上って鐘楼を目指した。あの頃は観光客も少なく、すぐに登れたのだ。何百段あったのだろう、息が切れ、目が回った。見晴らしのいい回廊に出ると、ほっぺたがしびれるほど寒かった。朝もやに煙るパリを見回したあと、鐘楼をさして彼女がいたずらっぽく言った：ほら、カジモドの仕事場よ！

<img alt="NotreDAME_2_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/NotreDAME_2_t.jpg" width="480" height="360" />

文豪ヴィクトール・ユーゴー原作の「ノートルダム・ド・パリ」。あとになってその話を読んでからも、わたしはカジモドをずっと実在の人物だと思っていた。舞台は15世紀。醜いせむし男カジモドが美しいジプシー女エスメラルダに優しくされて、恋をする。カジモドの育ての親でノートルダムの聖職者フロロもグレーヴ広場で踊る彼女を見初め、婚約者のいる彼女を自分のものにしようと罠にかけ・・・。ドラマチックなこの作品は何度も映画化され、ミュージカルやバレエ作品にもなっている。新しい映画の冒頭場面では、フロロが最初にエスメラルダを見かけるのがこのノートルダム広場になっている。

<img alt="quasimodo_2_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/quasimodo_2_t.jpg" width="480" height="345" />

ところが、原作にあるグレーヴ広場（Place de laGrève）というのは、シテ島ではなくてセーヌ右岸の、現在のパリ市庁舎前広場のもとの呼び名。この場所はセーヌ川の港だったため、砂場を意味するgrèveから来ているのだ。中世以降、この広場はまた、公開刑場の役目も果たしてきた。1792年、4月25日、ちっぽけなこそ泥にすぎなかったかわいそうなニコラ＝ジャック・ペルティエが当時の最新の斬首道具ギロチンで初めて処刑されたのも、ここだった。革命時には群衆の目の前で数多くの首が飛び、血が流された。

<img alt="Hotel-de-Ville_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/Hotel-de-Ville_t.jpg" width="480" height="360" />
【パリ市庁舎】

さて、大聖母堂（ノートルダム）前広場からこの血なまぐさいグレーヴ広場に向かう道はセーヌ河岸につきあたり、革命前には橋は存在しなかった。シテ島とこの広場を結ぶ橋ができるのは1823年まで待たなければならない。

<img alt="Arcole_3_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/Arcole_3_t.jpg" width="480" height="329" />

始めは橋脚のある二径間の吊り橋がかけられた。当時は人々が渡るだけだったのが、交通量が増えるに連れて、車も通れるよう、都市計画に沿って1854年に架け替えられた。長さ80mになるアルコル橋である。その由来には、ナポレオンがオーストリアを破ったときのアルコレの戦い（1796年）から、というのと、フランス7月革命のときに若い共和主義者が死ぬ間際に名乗った名前にちなむ、と二説あるらしい。アルコル橋は、セーヌ川初めての橋脚を持たない連鉄製、当時の最新技術を駆使したアヴァンギャルドな橋だったが、1888年2月にたわみが発見され、補強工事が施された。1995年にも補修工事がされている。

<img alt="Arcole_1_s.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/Arcole_1_s.jpg" width="190" height="190" />　<img alt="Arcole_up_s.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/Arcole_up_s.jpg" width="190" height="190" />

フランス各地へパリから○○キロと言うときの起点ともなっているノートルダム大聖堂は、フランスのカトリック教会の総本山であり、パリの中心だ。そこから右岸に向かうアルコル通りを通って、アルコル橋まで出てみよう。

<img alt="rue_pont_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/rue_pont_t.jpg" width="480" height="213" />

橋のたもとのフルール河岸をちょっと右手を降りたところに小さなビストロ兼酒屋がある。シテ島側のこの辺りは昔、サン・ランドリー港といって、木材、穀類、酒はもちろん、干し草まで荷揚げされる一大商業港だった。ビストロ「カジモドの酒蔵」は、1240年にすでに「タヴェルヌ・サン・ニコラ」という名前の飲み屋だった！　この店の地下2階に下りると、現在では壁で塞がれて殺風景な蔵になっているが、かつてはセーヌ川の船着き場に通じていた。つまり上下に出入り口があったのである。

<img alt="Bistro_s.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/Bistro_s.jpg" width="190" height="190" />　<img alt="Bistro_soussol_s.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/Bistro_soussol_s.jpg" width="190" height="190" />

その昔、「カルトゥーシュ」という神出鬼没の怪盗がパリで暗躍していた。この民衆の味方は実在の人物で、ここは彼が当局に追われたときの逃げ道の一つだったという。日本のネズミ小僧とは違って、人も殺したらしい。情けはあっても悪党には違いなかった。カルトゥーシュは味方の裏切りから当局に捕まり、1721年、11月28日、29歳で、やはりグレーヴ広場で重犯罪者として車裂きの刑に処された。このビストロの上の壁に刻まれた昔の通りの名前がなぜか、地獄通りrue d'Enferとなっている。

<img alt="enfer_s.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/enfer_s.jpg" width="190" height="190" />

そのかつての地獄通りにある真向かいの建物の地下にも、パリの歴史が隠されている。こちらは祈りの場所で、パリ最古の礼拝堂サン・テニャンLa Chapelle Saint-Aignan（1116年）。12世紀はじめのパリの聖職者であり政治家でもあった貴族エチエンヌ・ド・ガルランドの私邸として建てられた。一般公開されていないため、ふつうは見ることができないが、年に1度、数時間だけ公開される。伝説によれば、この界隈に住んでいた娘がジプシー青年の奏でる音楽の虜になるが、親に禁じられ、恋するあまり、寝込んでしまった。チャペルに祀られたマリア様の肌が死者のミサのときに黒ずんできたという…。

<img alt="Pont-d'Arcole_s.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/Pont-d%27Arcole_s.jpg" width="190" height="190" />

21世紀の現在、この建物の3階に住む75歳になるB氏は一人暮らし。毎日窓からアルコル橋を眺めて暮らしている。橋の向こうにウルトラモダンなポンピドゥセンターの原色の赤と青が見えることにももう慣れてしまった。朝は裏の建物から若い司祭たちのグレゴリア聖歌で目が覚め、朝食をとり終わったら散歩に出かける。いつものカフェ「エスメラルダ」のカウンターでコーヒーを立ち飲みして戻る。午後になると、橋の上でジプシーのアコーデオン弾きが毎回同じメロディを奏でる。彼にはそれが憂鬱だ。アコーデオン弾きがいなければ、サックス吹きやタムタムがやってくる。アフリカで長いこと暮らした彼は、神も信じないかわり、エキゾチシズムにも興味はない。我慢しきれなくなると警察に通報しては取り締まってもらうのだが、大道芸人たちは性懲りもなくやってくる。何か不思議な磁場に引寄せられるかのように。]]>
        
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    <title>ドゥブル橋</title>
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    <published>2009-01-07T13:23:58Z</published>
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        <![CDATA[<img alt="double_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/double_t.jpg" width="480" height="342" />

もし病院に入院するはめになったら、（昏睡状態でない限り）窓から眺める景色が病中の慰めとなるのは容易に想像がつく。川をまたいで建っている病室の窓の外に水の流れと荘厳な大聖堂の一画や河岸の様子が見えるならば、退屈な入院生活もずいぶん様変わりするはずだ。さらに、建っている場所がパリのど真ん中で、川の流れはセーヌ川、大聖堂はノートルダムだとしたら？　もちろん、時代は17世紀半ばのことだから設備は別にして、環境としては悪くないどころか、優雅ともいえる入院療養生活ではないか。この病棟がドゥブル橋の前身だった。

<img alt="hotel_dieu_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/hotel_dieu_t.jpg" width="480" height="252" />

今もノートルダム前広場にそびえる貫禄のある建物の名はオテル・ディユーHôtel–Dieu。もともと「館」、「邸宅」を意味するhôtelは「公共の建物」をも表し、Dieu とは神の意、かつて修道院が民衆のために開いた病院施設である。オテル・ディユーはフランス各地の古い町に存在するが、最初の「h」が大文字なのがパリ市立病院のこと。パリ発祥の地シテ島（セーヌ川の中州）内にあり、左岸から見ると、ノートルダム大聖堂前広場の向こう側（北側）に建っている。いかにも実務的、と思わせるがっしりした景観は、ノートルダムの華やかな前面と好対照をなしている。

<img alt="notredame2_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/notredame2_t.jpg" width="480" height="360" />

1515年、オテル・ディユー病院は、すっかり手狭となったため、左岸の川幅の狭い箇所に入院用病棟を建設することをフランソワ1世に申請した。病院のすぐ裏（北側）もセーヌ川だが、右岸に通じる北側ではなく、広場の向こう側の左岸を選んだのは、ただ南側という理由からではなかったようだ。この当時、左岸にあった隣の橋（現在の「プチィ・ポン」）が込み合っていたことから、新しく橋を造って川の上に建物を立ててしまえば一挙両得だったからだろう。橋に建物が乗っかっている建造物は、この頃ではごく当たり前のことだった。1626年になって許可がおり、三つのアーチからなる石の橋が渡され、上には2階建ての病棟が建てられた。フランス式２階建てだから、日本で言えば３階建ての天井の高い石造り。結構な高さがあっただろう。オテル・ディユー別館である。

この別館病棟の真ん中を通っていた通路（橋）はもとは病院関係者用だったが、そこを抜ければ島に渡れる。地域住民も通させてほしいと要求したが、オテル・ディユー側にしてみれば私有地なのだからスムーズにはいかず、すったもんだのあげく、ようやく通行権が認められた。もちろん有料で。歩行者一人につき、当時の貨幣で2ドゥニエ、馬に乗った者は6ドゥニエの税が課せられた。それがほかの橋の通行税の2倍だったところから、ドゥブル橋（「ドゥブル」とは二倍という意味）という名称で呼ばれるようになった。完成してすぐに橋の欄干が割れるという騒ぎもあったものの、すぐ川下の、古くからあるプチィ・ポンがつねに飽和状態だったので（現在も事情は変わらない！）、通行税を払ってもこの橋を渡りたい人は多く、病院の通路は立派に橋の機能を果たし、納められた税金は建設費に充てられた。

その後、1709年の大晦日にこの病棟兼橋は崩れてしまうが、すぐに建て直され、病人たちは1847年までセーヌ川の流れを見ながら入院生活をした。1848年になって、セーヌ川を船が航行できるように大きなアーチ一つの橋に建替えられた。1883年、鋳鉄製の、今度は建物なしの橋がかけ直され、現在に至っている（2004年に表面が塗り替えられた）。長さ45m幅20mと短く、車両通行禁止。車道用の中央部分ではよくローラースケートの曲芸の練習＋デモンストレーションが行われている。

<img alt="roller_s.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/roller_s.jpg" width="190" height="190" /> <img alt="roller3_s.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/roller3_s.jpg" width="190" height="190" /> <img alt="rora-4_s.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/rora-4_s.jpg" width="190" height="190" />

さて、前回（Vol.00352008年12月）からの散歩の続きをしよう。ノートルダム大聖堂の真後ろを通ってシテ島側からアルシェヴェシェ橋を渡り、そこからドゥブル橋を眺める。そして左岸５区のモンテベロ河岸をすぐ右に曲がる。ノートルダム大聖堂（右手）のまた違った華麗な横顔を少しづつ楽しみながら河岸の歩道を歩く。セーヌ沿いの古本屋ブキニストたちが軒並み店を構え、一つ一つビニールのカバーのかかった古本や観光客むけグッズを売っている。ドゥブル橋はそれにかくれて見えないが、じつに絵になる場所なので、絵はがきや写真で見知った方は多くいるはずだ。そのまま300メートルほど行く。途中、川縁まで降りてキャラメル色のドゥブル橋を下から眺める。橋桁に凝らされている意匠はなにやら日本趣味（？）。2004年以前のドゥブル橋は深緑色で、レースのようなノートルダムの前面によく映えた。わたしの好みでは、前の方が渋くてよかった気がするが、寒さの厳しい灰色の冬に暖かい色合いを添えたかったのかもしれない。

<img alt="monte_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/monte_t.jpg" width="480" height="360" />

<img alt="double3_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/double3_t.jpg" width="480" height="360" />

<img alt="notredame_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/notredame_t.jpg" width="480" height="360" />

<img alt="double4_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/double4_t.jpg" width="480" height="360" />

ところで、ドウブル橋はPont au Double（ポン・オ・ドゥブル）と書く37あるパリの橋のうちで、これは例外パターンだ。つまり、これまでみてきたPont Marieマリー橋などは「○○」と「橋」の間に「～の」を表わす「de」がなく、一方、Pont d’Auterlitz オステルリッツ橋、 Pont de la Tournelleトゥルネル橋などは、橋を意味する「pont」と名前の間に「de」が入っている（Austeriltz の pont）。この違いは日本語には反映されない。外国語に興味のない方には退屈かもしれないが、ちょっと気になるので調べてみたら、「de」がつかない（Pont Marie）例は全部で18、冠詞なしの名前や地名にdeまたはd’（母音が続く場合）のつく例が9、冠詞つきの名前や地名に「de」（場合によってdu, de la, de l', desとなる）がつく例は8あった。それに対し、Pont au Double（ポン・オ・ドゥブル）のように「de」ではなく「a」がつく例は（auは定冠詞àに男性名詞leが続いたも）数あるセーヌの橋の中でもたった二つだけだった。

<img alt="sur_le_pont.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/sur_le_pont.jpg" width="190" height="190" />

どちらも「・・・の橋」という意味合いになるが、大雑把に言ってdeは由来を示し、aは目的を示すというように、その使い方が違う。冠詞の問題は難しい。かなりのガクモンを要するので、ここではあっさりあきらめて、二つの例外すなわち、Pont au DoubleとPont au Changeシャンジュ橋がほかとどう違うのかをちょっと考えてみたい。これはシャンジュ橋の頃までの宿題ということで。]]>
        
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    <title>アルシェヴェシェ橋 </title>
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        <![CDATA[<img alt="cheve5_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/cheve5_t.jpg" width="480" height="264" />

 パリのノートルダム大聖堂はシテ島に建つフランスカトリック教会の総本山だ。世界遺産として広く知られているため、信者でなくとも世界中から人が訪れ、建物の中も外もつねにごった返している。荘厳、かつ勇壮、などと形容されるゴシック建築の最高傑作のすばらしさは、レースのように細やかなレリーフの刻まれた優雅で格調高い正面だけではわからない。この建物の迫力は後方の予想もつかないほど奇怪な姿にもあり、その変則的なフォルムには誰しも度肝を抜かれる。建物をささえるために構造上そうなったのかも知れないが、この禍々しい（？）後ろ姿は、華やかな前姿とともに、近寄りがたい聖域をかたちづくる一種のバリアーを放っているように思う。


 この姿をはじめて見たのはずいぶん前だったが、わたしは、その数年前に封切られたアニメ映画「風の谷のナウシカ」を思い出し、巨大な昆虫の王蟲（オーム）がそこにいるのかと思った。漫画作品の中の、腐海に棲むテレパシー能力を持つ神聖な生き物と、フランスの信仰の中心でありパリ発祥の地に建つ「ノートル（私たちの）ダーム（貴婦人）」すなわち聖母マリア様。カトリック信者にはとんでもない不謹慎な連想ながら、以来、私の中ではこの二つのイメージが混在し、それらに備わっているかもしれない超自然的な影響力（人が生きる力をそこから汲み取れるような）を思い比べてみたりしている。旅人ではなく住民として何度見ても、建物の内部に入ればすばらしいステンドグラスのあの丸窓が王蟲の目であるかのような錯覚に陥っては、やはり異様な建物だと思わずにはいられない。

<img alt="cheve3_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/cheve3_t.jpg" width="480" height="271" />

 冒頭からすっかり話がそれてしまった。

 それで、アルシェヴェシェ橋。セーヌ川の中州になっている二つ目の島、シテ島からセーヌ左岸に架かっているこの橋の上に立つと、こうした「我らが貴婦人」の畏れ多くも厳かな後ろ姿を目の当たりにできる。今にも動き出しそうなノートルダムが真後ろに見えるのがジャン23世広場。位置的に言うとシテ島のはじで、ノートルダム大聖堂の背後になるため、どうしても島のどん尻のような錯覚を起こすが、セーヌの流れからすると、こちらが上流に近いのでシテ島の頭に当たるのだ。サン・ルイ橋から続く道路の名前も、橋と同様「アルシェヴェシェ」河岸だ。とはいうものの、水の淵にあるわけではなく、シテ島のしっぽ（実際は上流）と言うか、とさかと言うか、先端が小さくとんがった三角形の土地が公園になっていて、右手にサン・ルイ島が見える。（そこにはまた戦争中に強制収容所で亡くなったユダヤ人を悼む記念館が建てられている。）

<img alt="musee_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/musee_t.jpg" width="480" height="341" />

 アルシェヴェシェ河岸を100メートルほど行き、セーヌ川の左岸に渡るのがアルシェヴェシェ橋（Pont d’Archevêché）、大司教の橋という意味である。1828年に完成したこの橋は、三つのアーチ（15m、17m、15m）をもつ石造りだ。長さ68m、幅はパリの橋の中では一番狭い11m。橋の高さも低く、ときには船の通行に差し支えるほどだ。ついこの9月にここで死亡事故があったとか。セーヌ川の遊覧船バトームーシュがスピードオーバーのあげく停泊していた船にぶつかり、40歳の男性と6歳の男の子が溺れて命を落としたのである。セーヌ川での死亡事故はこの20年間で3回あったが、その一つがアルシェヴェシェ橋の下で起きたことなのだった。聖域のはずがいったいどうしたことだろう。しかし、時速12kmと決められていたのをスピード違反して追突したのだから、人災もいいところ。聖母マリア様も愚かな人間の暴走は守りきれなかったのだ。

<img alt="cheve_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/cheve_t.jpg" width="480" height="239" />

<img alt="cheve4_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/cheve4_t.jpg" width="480" height="360" />

週末ともなると絵描きが集まりキャンバスに向かって筆を走らせたり、自作品を売ったりしている。とても寒い日で、あまり人通りもなかったが、かなり年齢のいった女性の絵描きがそらっとぼけたマンガチックな絵を売っていた。ご本人は一見怖そうだけど、案外ずっこけたところがあるのかもしれない。ローラーブレード嬢がにぎやかにやって来た。14歳の仲良し3人組のはじける若さ。思い思いの楽しいおしゃれが灰色の空の下に彩りを添えている。

<img alt="artiste_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/artiste_t.jpg" width="480" height="357" />

<img alt="artiste2_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/artiste2_t.jpg" width="480" height="392" />

<img alt="trois_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/trois_t.jpg" width="480" height="360" />

 橋を渡ると5区だ。ヴィエーブル通り、メートル・アルベール通りの先がサンジェルマン大通り、右手に地下鉄駅のモベール・ミュチュアリテがある。今はもう引っ越してしまったが、元バレエダンサーの友人がサンジェルマン大通りに面した建物の、正真正銘の屋根裏に住んでいた。シャワーなし、トイレは外の廊下の先。12平米もあったろうか。彼女は私よりも少し年上で、出会ったときには和紙に絵を描く人だった。もちろんそんなもので身を立てられるわけもなく、もとはいいところのお嬢さんが、なぜ、こんな女中部屋に甘んじているのか分からなかったが、幼い頃からバレエしか知らなかったので、踊ることが出来なくなって途方に暮れ、極貧生活に甘んじていたのだ。品があり、知的文化レベルも高く、ものを欲しいと思わない人だった。週末には実家に帰る学生ならいざ知らず、いい年をした中年女性がお風呂もトイレもないマッチ箱みたいな小部屋に8年も住み続けるなんて、まず無理な話だと思う。ご存知の通り、この国には銭湯なんかないのだから。その彼女が言っていた。「わたしの窓にはいつもノートルダムがいてくれた」

<img alt="notredame.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/notredame.jpg" width="480" height="349" />

<img alt="bouquiniste2.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/bouquiniste2.jpg" width="480" height="360" />

彼女はノートルダムを独り占めしていた。そして毎朝、いつもアルシェヴェシェ橋を渡って教会に足を運ぶのだ。不思議と彼女の部屋から俯瞰で見るノートルダムの後ろ姿は、真後ろで見たときのような奇異な感じはしなかった。とくに夜、ライトアップされ闇に浮かび上がる姿はじつに壮麗で美しく、独特のスピリチュアルな「気」に包まれていたように思う。この界隈の屋根裏に住む貧しくうちひしがれた人たちがどれだけそのオーラに守られていることだろう。桴海＝毒の森の空気を吸った人間が、治癒能力を有し慈しみの感情も持つオームの分泌する「漿液」で肺を満たすことによって再び呼吸ができるように。

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    <title>サン・ルイ橋</title>
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    <published>2008-10-30T07:17:25Z</published>
    <updated>2008-10-30T13:57:59Z</updated>
    
    <summary>Vol.0034</summary>
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        <![CDATA[<img alt="saintlui_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/saintlui_t.jpg" width="480" height="297" />

前回のルイ・フィリップ橋からサン・ルイ島に入って50mほど行くとすぐに短い橋にぶつかる。通りから右斜め30度ぐらいの角度でシテ島にのびている。幅16m、長さ67m、セーヌ川の中州となっているサン・ルイ島とシテ島を結ぶ唯一の橋でもある。橋の手前が小さな広場になっていて、左右にカフェとブラッスリーがあり、日だまりのテラス席はいつも人で大にぎわいだ。左手のアイスクリーム売り場はつねに長蛇の列。誰もが知っているベルティヨンだ。ちなみに本店はサン・ルイ島を縦に走る唯一の通りサン・ルイ・アン・イル通りの中程にあり、その他にも２店ほどある。秋冬にだって行列ができるほどの人気店だから、ここが込んでいるときは、少し歩いてほかの売り場に行ってみるといい。

<img alt="pertillon_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/pertillon_t.jpg" width="480" height="597" />

サン・ルイ島が二つの小さな島から生まれた話は前にした（2008年5月Vol.0031）が、当時から、この島の南側、つまり5区／シテ島に面した箇所は、川の流れが激しいために船の通行にも橋にもちょっと微妙な場所だった。今架かっている鉄筋製の「サン・ルイ橋」は1970年に完成したが，何度も建設されては立て直されたあげくのことだった。


1）最初の橋はサン・ランドリ橋といい、サン・ルイ島ができて間もないころ（1630年）、現在の位置よりさらに斜めに、サン・ルイ島の突端からシテ島のフルール河岸とウルサン通りとシャントル通りの三叉路に向けて架かっていた。それが押し寄せた人の列に耐えられず崩壊し（1634年）

2）1656年にできた次のアーチ橋は川の氾濫で翌年崩壊

3）1717年建設された7つのアーチの「赤い木橋」も洪水で崩壊（1795年）

4）1804年にできたアーチ橋は重みでたわんできたために1811年に取り壊される

5）次に二つのアーチの橋が渡され（1842年）

6）それが吊り橋となって「シテの歩道橋」と呼ばれた

7）1862年金属製の橋が二つの島を結ぶものの、1939年、12月22日、自動車が爆発して、20人がセーヌ川に飛び込み、3人が溺れ死ぬ

8）その後、かなり見栄えの悪い代替の橋が架けられた（1941年）。ドイツ軍に半ば占領されていた戦時中のことでもあり、とりあえず必要に迫られてのことだろう

9）この権威ある歴史地域にふさわしい、けれどもノートルダム大聖堂とのバランスを崩さない質素で控えめな現在の橋の建設が始まるのは1968年、あの学生運動のさなかだった。

このうち、2）が忘れられ、5）と6）が同じものとされたのだろう、現在が7番目の橋とされている。

<img alt="saintlui2_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/saintlui2_t.jpg" width="480" height="244" />

17世紀に誕生したサン・ルイ島には、もともと徴税官や司法官、貴族たちが瀟洒な館を建てて暮らしていたが、時代が下がってボードレールやカミーユ・クロデールなど作家や芸術家も住んだ麗しいファサードの建築物が眺められるようになった。パリのど真ん中なのに小さな村のような牧歌的ムードをもつこのあたりには、日曜も開いているかわいいブティックやギャラリー、レストランが目抜き通りに軒を並べる。景観を損なわないように配慮されているためか、パリのほかの観光地のような安物のお土産売りもいないし、値段も手頃、客を迎える側はヒステリックでもなく、スノッヴでもない。どこか余裕があるような気がする。サン・ルイ橋からシテ島に渡るとすぐに、世界遺産であるノートルダム大聖堂の裏手になっている。四季を通じて、観光客はもちろん地元の人たちの人気の散歩コースとなっている。

歩行者および自転車専用のこの橋はごくシンプルなデザインだが、週末ともなると大道芸人の貸し切り舞台と様変わりし、それを囲む人の輪で通るのもままならないくらいの込みようだ。自転車通路があるのにそこを自転車で通る人は芸人にしかられてしまう。かつて中世の橋がそうであったように、橋は人が渡るだけでなく、劇場としても機能しているのである。毎週やってくる芸人たちには仁義があるらしい。お互い場を決めて荷物を置きながらも、ほかの芸人がやっているときには邪魔をしないでおとなしく順番を待つ。橋が短いからというのもあるが、観客の取り合いをしないためだろう。

<img alt="felix_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/felix_t.jpg" width="480" height="386" />

サーカスのピエロ、道化をフランス語ではクラウンというが、クラウンはふつう、鼻に赤いピンポン球のようなものをくっつけておかしな身振りで人を笑わせる。サン・ルイ島にやってくるフェリックス（本人曰く17歳半）は、なぜか、スキンヘッドの頭に赤いピンポン球をつけている。スキンヘッドにあのピンポン球をどうやって固定しているの？　と思ってよく見たら、剃り残し、丸くカットした地毛を赤く染めているのだった。だから飛行機乗りの帽子をその上にかぶっても平気なのだ。その彼の芸と言えば、自転車の曲芸とおしゃべり。もう何年も来ている常連だ。

<img alt="felix4_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/felix4_t.jpg" width="190" height="190" />
<img alt="felix3_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/felix3_t.jpg" width="480" height="371" />


フェリックスの出し物が終わると、隣にスーツケースを置いていた背の高い北欧系の青年がフランス語と英語で早口で自己紹介しながら人集めをする。フランス語には英語訛りがあるものの、じつに流暢な、しかも笑いを取りながらの話術に引きつけられ、人が次々集まってくる。彼は本物のジャグラーだ。

<img alt="inmo5_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/inmo5_t.jpg" width="480" height="748" />

ボール、トーチ（火の棒）、クラブ（ボーリングのピンのようなもの）を空中に、胸の前で、背後で、足をまたいで、自在に舞わせる。その動径は美しく、うっとりさせられる。それが弾丸のようなおしゃべりと同時なのだ。事前に訓練させられている観客も拍手やはやし声で参加する。素人の子供をアシスタントに使った軽業も、アドリブが混じってなかなかスリルに富み、ムードは満点だ。彼は1月に劇場での出し物を準備中とか、その宣伝も忘れない。

<img alt="inmo_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/inmo_t.jpg" width="480" height="379" />

そのあと、すぐ隣で移動オルガンとコントラバスとサックスなどで編成されたニューオーリンズスタイルのジャズバンドの演奏が始まった。今日はミュージシャンが二人で、タキシードを着た黒人のシンガーがマイクの代わりにメガホンを持って歌っている。自分の影と遊んでいたパントマイムのおじさんが、おびえた表情で見つめる中国人の女の子の周りをぐるぐる回っている。結婚式の流れだろうか、盛装した一行が写真撮影にやって来た。その人ごみを横に見ながら橋を渡り切ると、シテ島の後方、フルール河岸にぶつかり、ノートルダム大聖堂の後ろ姿が眼前に広がる。


<img alt="marriage1_tc.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/marriage1_tc.jpg" width="190" height="190" />　<img alt="que_tc.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/que_tc.jpg" width="190" height="190" />　<img alt="inmo4_tc.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/inmo4_tc.jpg" width="190" height="190" />

一方の橋のたもとには絵描きが作品を並べて、通行人と話し込んでいる。反対側の角でセーヌ川を背にボサノバを弾き語りしている歌手も常連だ。今日は隣にコントラバス奏者がいる。あれ、ヒュ〜ン、ヒュ〜ンと鳴っているこの音はなんだろう？　オンド・マルトノに音は似ているけれどあんな大掛かりな楽器であるわけはないし、当の彼が演奏しているのはコントラバスですらなく、細長いものを足で抱えているだけ。楽器の形もなんだか変だぞ。え、まさか・・・近づいてよく見ると、やっぱり！　なんと大きなノコギリの背に弓をあてて、「イパネマの娘」の伴奏をしていたのだった！　音階を熟知したかなり高度な演奏で独特のムードを醸し出している。

<img alt="bossa_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/bossa_t.jpg" width="480" height="360" />

通り道、人の行き交う場所、出会いの場所、パフォーマンスの舞台、物売りなど、姿こそ地味で目立たないサン・ルイ橋は、本来の「橋」が持つ機能を十分上回ったクリエイティブな空間だった。]]>
        
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    <title>ルイ＝フィリップ橋</title>
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    <published>2008-09-18T07:36:17Z</published>
    <updated>2008-09-18T08:08:36Z</updated>
    
    <summary>Vol.0033</summary>
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        <![CDATA[<img alt="pont_1_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/pont_1_t.jpg" width="480" height="204" />

自由の女神が胸もあらわに三色国旗を掲げている絵「民衆を導く自由の女神」は、画家ウージェーヌ・ドラクロワの名作だが、これは1830年の7月革命を象徴的に描いたものだという。この7月革命で、最後のフランス王であるブルボン王朝のシャルル10世は打倒され、分家のオルレアン公ルイ＝フィリップが国王に迎えられた。「統治するとも君臨せず」。彼はフランス国民の王となり、フランスは初めて立憲君主制を知ることとなった。

<img alt="pont_２_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/pont_%EF%BC%92_t.jpg" width="190" height="190" />

その3年後の7月29日、革命の起きた「栄光の3日間」を記念して国民王ルイ＝フィリップが最初の石を置いたのが、ルイ＝フィリップ橋である。真ん中に凱旋門のような門を構えた吊り橋として、1年後に完成。しかも、現在の橋とは違って、セーヌ川に直角にぶつかるルイ＝フィリップ橋通り（おなじ年に名付けられた）からサン・ルイ島の切っ先をかすめてシテ島のフルール河岸に斜めに架かっていた。

<img alt="pont_５_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/pont_%EF%BC%95_t.jpg" width="190" height="190" />

7月革命ではじまった7月王政だが、この体制の「市民」とはごく少数の富裕なブルジョワジーのことであり、ルイ＝フィリップは彼らを擁護する政策をとっていたため、労働者の不満がつのり、再び1848年2月に革命が起きてしまう。斜めにセーヌ川を横切っていた長い吊り橋は、この革命騒ぎで南側が焼け落とされ、1852年に再建されたときは「改革橋」という名で呼ばれるようになった。

<img alt="pont_7_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/pont_7_t.jpg" width="480" height="360" />

その後、発展を続けるパリの交通量は飛躍的に増え、幅の狭い改革橋では間に合わなくなったため、取り壊される。今度はルイ＝フィリップ橋通りからその延長線上に、セーヌ川を直角に横切ってサン・ルイ島へのびる橋が建設される運びとなった。長さ100m、幅15、2mの現在の橋の工事が1860年に始まり、２年後に開通。ときはナポレオン3世のご時勢となっていたが、その橋にフランス王政最後の王ルイ・フィリップの名前が冠せられたのだ。

<img alt="fleur_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/fleur_t.jpg" width="480" height="360" />

ちなみに、オルレアン公ルイ＝フィリップは、7月革命で王位に就くまで波瀾万丈の人生を送っている。母方がブルボン家の血筋をひき、もともとルイ16世の従兄弟にあたるが、フランス革命が勃発すると、当時16歳で青年将軍として革命軍に身を投じる。父であるフィリップ平等王は国王（ルイ16世）の処刑に賛成するが、その当人もやがて断頭台の露と消え去る。若きプリンス、ルイ＝フィリップはオルレアン公を継承し、国外亡命。逃亡先でマリー＝アントワネットの姪と結婚して8人の子を儲け、スイス、アメリカ合衆国からスカンジナビア諸国、イギリスでの逃亡生活ののち、ようやく母国の地を踏んだのは1914年だった。1830年に７月革命が勃発して担ぎ出されたときはすでに57歳。1773年生まれのルイ＝フィリップがこの橋に最初の石を置いた年は、彼の60歳の誕生を祝ってのことだったのか。放浪のプリンスの感慨はどんなだったろう。

<img alt="cafe_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/cafe_t.jpg" width="480" height="360" />

さて、前回のマリー橋（Vol. 0032）から、セーヌ川を右手に見ながら右岸を散歩する。川縁の下の道は信号のない自動車道だ。月曜から土曜まではひっきりなしに車が通るため渡ることは不可能だが、今日は日曜日、歩行者天国の日である。朝早いこの時間、まだ通る人もまばらだ。そこを渡って河岸に出てみる。数年前、この岸にテントを張り、炊事までしている人があった。小さいドラム缶に火をくべていたその男性はちょっとヒッピー風のひげ面で、SDF（ホームレス）というよりは、世捨て人か隠遁者、あるいはさすらいの旅人のように見えなくもなく、薄ら寒い秋の夕方、そうしてセーヌの川縁で焚き火をしていたのだ。ブルーがかった重苦しいグレーの陰鬱な世界で一人オレンジ色の炎を自由にあやつっている、その姿を橋の上から凍えながら眺めていた私には、ずいぶん贅沢で風流な趣味人のように見えた。こうした街角の詩人は残念ながら一掃され、すぐに消えてしまう。それともどこかに秘密の扉でもあるのだろうか？

<img alt="rue-barres_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/rue-barres_t.jpg" width="480" height="360" />

階段を上り、橋のたもとに出る。右手に花に囲まれたかわいいカフェバーやレトロなレストラン、その奥は少し上り坂になった石畳のバール通り。ちょっと中世のムードが漂うお散歩コースである。元に戻ってサン・ルイ島に向かって橋を渡ってみる。これまでの橋と違って石畳なのが特徴だ。野暮な交通表記やラインがなくてホッとする。橋の上から右手にサン・ルイ島の先端が見え、その先にシテ島がある。吊り橋だった最初の橋は、このアングルでシテ島まで架かっていたのだ。上方に見える黒い先端はノートルダム大聖堂の塔で、右手にカテドラルの白い正面が見える（真っ黒だった中世の建物が90年代にきれいに洗い流されたのだが、さすがにあの先端の汚れだけは無理だったのだろう）。ということは、昔の橋はノートルダムを目指して架けられていたことになる。橋を渡る人たちの正面にはいつもあのカテドラルがあったわけだ。

<img alt="pont_6_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/pont_6_t.jpg" width="480" height="360" />

さらに進むうち、サン・ルイ島のブルボン河岸に近づく。朝早いので人がほとんどない。カフェも開店したばかり。いかにもサン・ルイ島住民といった風情の、優雅だがさりげない服装のマダムが一人、やはりそれらしい小型の犬を連れてお散歩している。おや、川縁に降りる階段下に妙な穴を発見。あれはいったい？

<img alt="trou_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/trou_t.jpg" width="190" height="190" />

<img alt="pont_４_t.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/pont_%EF%BC%94_t.jpg" width="480" height="287" />

つい好奇心につられて階段を下りてその穴までいき、おそるおそるのぞいてみる。が、ただのがらんどう。橋の下にはよくこういう小さな空間がある。おそらくかつて道具などをしまっておく小屋だったのかもしれないが、そのほとんどはあばら屋のような状態で放っておかれている。10年ほど前ならまだ、地下生活者の巣窟とでも言えるような負のイメージをかき立てる場所としてロマンが膨らむ余地もあったことだろうが、セーヌ河岸が世界遺産となって以来、おまわりさんがひっきりなしにパトロールするようになった。不思議感のうすいただの空洞に少しがっかり。それとも、時間によっては、タイムマシンになったりして？　]]>
        
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    <title>マリー橋</title>
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    <published>2008-06-26T08:02:01Z</published>
    <updated>2008-06-26T08:21:03Z</updated>
    
    <summary>Vol.0032</summary>
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        <![CDATA[<img alt="marie2.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/marie2.jpg" width="480" height="360" />

左岸からトゥルネル橋を渡ってサン・ルイ島に入る。橋よりも道幅の狭いその道はドゥ・ポン通り（Deux Ponts：二つの橋の意）と言い、約200m行くともう島を横断したことになって再びセーヌ河畔に出る。そこにかかっているのがマリー橋だ。長さ92m、幅22m、それぞれ形の異なる五つのアーチからなる石橋。パリで最も古くに建設されたものの一つで、現存する橋ではポン・ヌフの次に古いことになる。

<img alt="hashinoue.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/hashinoue.jpg" width="480" height="236" />

前にも書いたとおり（2008年5月号　Vol.0031）、現在のサン・ルイ島の前身は二つの小島だったが、それを一つにして橋を架ける開発計画は1605年から提唱されていた。ようやく王の承諾を得て、実際に建設が始まったのが1614年（サン・ルイ島が建設された年）、しかし橋が完成して人が通れるようになるのは1635年だから、じつに21年後である。いくら中世とはいえ、ずいぶん気長な話ではないか。はじめからそれを構想し、最後までやり遂げたのが、鉄の意思の人クリストフ・マリーだった。そう、この橋の由来は女性の名前ではなかったのだ。「マリー」というので勝手に女性の名と思い込んでいたのは、私の完全な勉強不足だった。

<img alt="porte3.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/porte3.jpg" width="480" height="689" />

さて、この建築業者マリー氏の事業は橋が完成したあとも続いた。というのは、この時代、橋は往来の場所であると同時に人が住む場所でもあったから、行政側の要請を汲みいれつつ、橋の機能や景観を壊さず住民の意思も反映しながら、そこに50軒の家や商店が建てられることになった。ところが、この橋の上に住む人たちの家は、1658年のある晩、増水の折に島側のアーチが流されて一夜のうちに三分の二が消えてしまうのである。流された人60人。残った半分の橋から島へ渡る木橋ができるのが2年後、そこに料金所をもうけて石橋建設の資金の足しにして、ようやく1670年に流された半分が元に戻るのである。

<img alt="marie1.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/marie1.jpg" width="480" height="360" />

ここでおかしなことが起きた。流されなかった部分、もとの橋の上には家が建ったままだが、新しい部分には家を建てなかったのだ。遠くから見たら歯が欠けたように見えただろう。1658年の大洪水の被害で22軒の家族が家も財産もなくしてしまった悲劇を再び繰り返さないためにという当局の判断だ。1740年にはこの橋に残った家も取り壊され、その後、パリ中の橋の上の家は徐々になくなり、1788年にはすっかり消えてしまう。

<img alt="toi.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/toi.jpg" width="190" height="190" />

さて、サン・ルイ島までぶらぶら歩いてみよう。冒頭のドゥ・ポン通りからマリー橋に向かって左の角に、たしかジャズのライブハウスがあったはずだ。いつもジャズ専門のラジオ局でその名前を聞いている店だが・・・どうも工事中のようだ。改装かな？と近づいてみると、なんと売りに出されていた。中世そのままの石造りのレトロな内装をときたま外からのぞきつつ、いつか入ってみたいと思っていたジャズバーだったが。その２軒隣には日本のフレンチレストラン「○○松」があった。こちらも数年前に店をたたみ、今でも売り手がついていないようだ。古き良きパリの風情が残るサン・ルイ島の北側の通りは商売に向かない場所なのだろうか。

<img alt="jasper.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/jasper.jpg" width="190" height="190" /> <img alt="porte4.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/porte4.jpg" width="190" height="190" />
<img alt="porte1.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/porte1.jpg" width="190" height="190" /> <img alt="porte2.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/porte2.jpg" width="190" height="190" />

島側から橋を見て右側がアンジュー岸、左側がブルボン岸。古い景観の残る河岸を散策するとカミーユ・クロデールの家、ジャン・ジャック・ルソーの住んだランベール館、ボードレールの通ったローザン館など、17世紀の館がちらほら見える。

右岸のオテル・ド・ヴィル（市庁舎）通りの下を通っているのは、信号で渋滞する道を通らずにベルシー方面へ抜けることのできる自動車道だ。日曜日は歩行者天国となり、家族連れや仲間同士で散歩する人たちをローラーや自転車が追い越していく。五つ目のアーチが自動車道をまたいでいるが、かつての川を埋め立てて整備したものだろうか。

<img alt="bukinist.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/bukinist.jpg" width="480" height="360" />

<img alt="sens.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/sens.jpg" width="480" height="415" />

マリー橋を渡って右岸の左手からセーヌ河畔の古本屋ブキニストが店を出している。地下鉄７号線の駅Pont Marieポン・マリー（「マリー橋」の意）があり、その向こう一体が国際芸術家村。各国の音楽家、画家などが住み、時にはコンサートや展覧会などが行われている。まっすぐ行って右手にもとアンリ４世妃マーゴ王妃の館だったサンス館、その裏に骨董品街ヴィラージュ・サン・ポール。少し歩くと左手に写真美術館、そのまま歩くと地下鉄１号線サン・ポールの駅まですぐだ。ひっそりと佇むマリー橋界隈は派手さこそないが、古き良きパリを偲ぶ孤独な夢想者が散策していそうな場所である。]]>
        
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    <title>トゥルネル橋</title>
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    <published>2008-05-22T03:58:27Z</published>
    <updated>2008-05-23T10:12:46Z</updated>
    
    <summary>Vol.0031</summary>
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        <![CDATA[<img alt="tournelle4.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/tournelle4.jpg" width="480" height="218" />

5区のトゥルネル河岸とサン・ルイ島のオルレアン河岸を結ぶ橋。地理的事情から、この場所には中世から何度も橋が架けられては流されたり壊れたりしている。

<img alt="tournelle1.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/tournelle1.jpg" width="480" height="351" />

最初の橋が建設されたのは1369年だが、当時、サン・ルイ島はまだ存在していなかった。上流に牛島、下流にノートルダム島という二つの小島があったが、最初の橋は少し大きいノートルダム島に架かっていた。すぐ下流のシテ島ではノートルダム大聖堂の建設が12世紀から始まっていたから、この島からそれがよく見えてそんな名前がついたのだろう。しかし、その地形のためかセーヌの水の流れは微妙だった。木製の橋はセーヌ川の増水で流されてしまう。

やがて二つの小島が一つになってサン・ルイ島ができたとき（1614年）、再び木製の橋が建設され、島に通る人や馬、車両には通行税が課された。が、これもまた1637年、厳寒のために水が氷りつき壊れてしまう。再び架けられた橋も洪水であえなく流され（1651年）、今度は石の橋に生まれ変わり（1656年）、その後、橋桁を低く幅を広げて再建された（1848年）。ところが1910年、パリの記録的大洪水の際に大きな被害を被ってしまう。崩れはしなかったものの痛みが激しく、この石の橋も1918年には取り壊される。

というわけで、ようやく現在の橋の登場だ。

<img alt="tournelle6.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/tournelle6.jpg" width="480" height="297" />

1928年に完成したのは、長さ122m、幅23m、鉄筋コンクリート、表面が切石で覆われた三連のアーチ橋である。それまではアーチが均等にいくつもあるふつうの橋だったが、今度のはアーチの大きさが12,5m、74m、11mと、真ん中のアーチがかなり幅広にできている。しかも5区に近い方にロケットみたいな格好のものがつきたっている。これはパリの守護聖人サン・ジュヌヴィエーヴを奉った塔ということだ。なるほど、その先端をよく見ると人の形をしている。以前の橋を踏襲せずわざとアシメトリーにしたのは、セーヌ河畔からの美観を際立たせるためというのだから、憎い。この国の人のこういう美的感覚にはやはりかなわない。

<img alt="Ste.-Genevieve.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/Ste.-Genevieve.jpg" width="480" height="640" />

さて、中世に戻ると、12世紀に左岸に「トゥルネル」と呼ばれた櫓があり、ここからパリに入る船を見張っていたという。この tournelle という言葉自体、tour（塔）から派生したもので（エッフェル塔だとTour Eiffel）、tourelle（櫓）から来ているとか。1340年に船着き場が建設され、ここから瓦や薪などを荷揚げしていた。1372年の古い絵はがきを見ると、すでに櫓ではなく、Fort de Tournelle（トゥルネル城塞）が建っているが、この塔になった城塞は16世紀に苦役をする囚人の監獄となり、革命のときに壊されてしまう。

<img alt="tournelle2_S.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/tournelle2_S.jpg" width="190" height="190" />

ところで、トゥルネル河岸と聞いて、グルメならばすぐに橋の正面にある「ラ・トゥール・ダルジャンLa Tour d’Argent（銀の塔の意）」を思い出すのではないだろうか。いわずと知れた美食の殿堂、ヨーロッパで最も古い最高級レストランだ。この国ではどこの都市でもレストランはほとんど地階、でなければせいぜいその上の一階である。パリには今でこそ高い場所から外を眺めるレストランがいくつかあるが、トゥール・ダルジャン（この方が通称）はほぼ400年の間、唯一無比の眺望レストランとして君臨した。最高のカモ料理を王侯貴族のような室内で味わう醍醐味は、ミシュランガイドの創立当初1933年から三ツ星レストランとして別格として扱われてきたが、時の趨勢に乗り遅れ、1996年に二つ星に降格、残念ながら今は星が一つになってしまった。美食にはいまいち鈍感ながら、高いところと歴史建造物の好きな私はそれでも、トゥール・ダルジャンの窓から眺めるノートルダムはどんなだろうかと憧れている。


【トゥール・ダルジャン】<img alt="tourd'argent.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/tourd%27argent.jpg" width="480" height="480" />


<img alt="isamu_S.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/isamu_S.jpg" width="190" height="190" />
<img alt="tournelle5_S.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/tournelle5_S.jpg" width="190" height="190" />

そんな美食の殿堂にあやかろうと思ったのか、その反対側のサン・ルイ島に和食の店「勇鮨」がある。今でもサンジェルマンにあるパリ最初の鮨屋「築地」から独立した板前さんがご主人だ。トゥール・ダルジャンのけばけばしさとは比べ物にならない小さな、日本のどこにでもあるような店だが、パリにSUSHI の看板が溢れるようになるずっと前から超一流というクラス分け。わたしは食べた事がないが、無口で頑固なオヤジが握る鮨のネタは新鮮で味もいいと聞く。サン・ルイ島の住民でそこで働いていた人によると，毎日予約でいっぱいとか。
ずいぶん話が橋からそれてしまった。

<img alt="tournelle3.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/tournelle3.jpg" width="480" height="197" />

ノートルダム大聖堂の後方は正面と様相がかなり違って異様な印象を与えずにはおかないが、このトゥルネル橋からはその後ろ姿を目の前で見る事ができる。サン・ジュヌヴィエーヴ塔の下はちょっと引っ込み、ほこらのようになっている。そこに寝袋とリュックを置いたのは、若い旅行者だろうか、この場所を見つけた孤独な旅行者の興奮が伝わるようだ。ここをねぐらにするとすれば、彼は一晩中ノートルダムを独り占めできるのだから。

<img alt="arc.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/arc.jpg" width="480" height="280" />

「遠ざかるノートルダム」というエッセイで森有正がこの大聖堂の後ろ姿について書いていた。当たり前の建築物でないということは誰が見ても感じるはずだ。そのすばらしさをもっと堪能したい人は、ブキニストと呼ばれる河岸の古本屋の脇を通り抜けて、世界遺産になっているセーヌ河畔に降りてみよう。その由縁が分かるはずである。夕暮れ時など、本当に素晴らしい光景が広がる。心地よい風に頬をなでられながら川端でピクニックするのも一興だ。第一、この場所はよく映画の撮影に使われる。映画の題名は忘れたが、正装したウディ・アレンがテーブルを持ち込み、白いクロスをかけて食事をしていた（たぶんチキンローストだったと思う）のもこの河岸だった。]]>
        
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    <title>シュリー橋</title>
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    <published>2008-04-27T12:55:49Z</published>
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        <![CDATA[<img alt="sully_long.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/sully_long.jpg" width="480" height="217" />

左岸はカルチェラタン。すっかりパリ中心に近づいてきた。たいていのセーヌ川クルーズ（遊覧船）コースがこのあたりで迂回する。これを読む人が必ずしもパリの地理に詳しいとも限らないと思うので、基本的なことをまずひとつ。セーヌ川は一部中州になっていて、セーヌが南東からパリに入って３分の１ほどのところに二つの島が浮かんでいる。前回のオステルリッツ橋から遠くに見えたのが、シュリー橋の通っているサン・ルイ島である。もう一つの島、シテ島にかかるポン・ヌフ(2007年6月号_Vol.022参照)と同じく、切っ先をかすめている橋が二つともシュリー橋。ただし、ポン・ヌフは両方とも最初からポン・ヌフだったけれども、こちらは昔、別々の吊り橋が架かっていたところに新しく建設されてこの名前になった。

<img alt="sully_GB.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/sully_GB.jpg" width="480" height="480" />

右岸のアンリ４世岸とサン・ルイ島のアンジュウ岸を結ぶのがシュリー橋のプチ・ブラ”Petit Bras（小腕の意）”と呼ばれ、長さ93m、幅20m、両側が石、中程が鉄筋のアーチ橋である。もう一つはグラン・ブラGrand Bras（大腕の意）”と呼ばれ、サン・ルイ島のベチュヌ岸から左岸のサン・ベルナール岸をつなぐ、長さ163m、幅20m、三つのアーチ（46m、49m、46m）からなる鉄橋である。1877年８月25日落成したシュリー橋は、当時、オスマン男爵の指導のもとに進められていたパリ都市計画の一端として建設された。バスチーユ広場からまっすぐのびる大通り（Boulevard Henri IV）がセーヌ川を斜に横切る橋で、この通りはサン・ジェルマン大通りにつながっている。

<img alt="sully_bastille_s.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/sully_bastille_s.jpg" width="190" height="190" />　

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<img alt="sully3_s.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/sully3_s.jpg" width="190" height="190" />

<img alt="sully.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/sully.jpg" width="480" height="360" />

オスマン男爵以前のパリでは、右岸側に架かっていたのがダミエット吊り橋といい、1848年の暴動で破壊された。左岸側にあった吊り橋は1638年に完成し通行料を取っていたコンスタンチン橋で、1872年に自然崩壊してしまった。そのほか、昔はサン・ルイ島のしっぽというか先っちょというか、バリー公園から右岸に桟橋が通っていた。古いパリの写真にそれが残っている。1818年に船着き場としてできた。水浴びする人たちの散歩場所でもあったのだが、何度も大水などの災害に遭い、結局1938年に取り壊されてしまった。

<img alt="sully4_s.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/sully4_s.jpg" width="190" height="190" />

毎年夏になると「パリ・プラージュParis Plage（パリの浜辺の意）」が催され、シュリー橋からポン・ヌフあたりまでセーヌ右岸の自動車道が歩行者天国となり、ビーチと化す。2002年から始まったこの催しは、仮設の砂浜のため大都会の真ん中に何トンもの砂やヤシの木が運ばれることから、エコロジー信奉者あたりの批判を買ってはいるものの、意外とバカンスに出かけられない家族連れのパリっ子や観光客には好評なようだ。たしかに、暑くなるとセーヌ河畔には裸で日光浴する人が出てくるし、歴史的に見てもセーヌ川の水浴びは数世紀昔にすでに流行っていたらしい。裸姿が近隣の住民のひんしゅくを買って1680年頃に着替え小屋ができたという。17世紀のパリの人たちの服装を考えると、街の真ん中の川で水浴びなんて、なんだか楽しそうだ。

<img alt="als.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/als.jpg" width="480" height="480" />

バスチーユからアンリ４世大通りを通ってシュリー橋を渡る手前左にアルスナル建築図書館があり、パリの歴史的建造物について知ることができるスポットだ。バスチーユ広場を背にプチ・ブラを渡ると、右手にサン・ルイ島の有名なランベール館が見え、左手がバリー公園だ。その先のグラン・ブラからはトゥルネル橋、シテ島、そしてノートルダム大聖堂の勇壮な後ろ姿など、すばらしい景観が広がる。正面にはアラブ世界研究所のモダンな建物。建築に興味がなくても、高いところが好きな人は最上階のカフェでミント・ティーを飲むといい。

<img alt="arab.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/arab.jpg" width="480" height="381" />

<img alt="jessieu.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/jessieu.jpg" width="480" height="245" />

前回見たように、左岸の旧サン・ベルナール港は野外彫刻博物館となっていてそぞろ歩きに最適だ。アラブ世界研究所の隣に建っている、いつ来ても工事中のうっとうしい建物・・・このいかにも野暮な姿は、パリ第七大学（ジュシウ・キャンパス）。これはこれで、パリの一つの名所でもある！　というのも、1959年、かつてのワイン蔵La Halle aux Vins（ラ・アール・オ・ヴァン）跡地にプレハブの校舎が設置されてからというもの、未だ仮校舎のままで常に物議をかもしているスポットなのだから。何かあるたびに学生たちが機動隊とぶつかり合う場所であり、2年ぐらい前からアスベスト問題のため緩い解体工事が行われているものの、その有効性が大臣より内部告発されるという始末。惨めな臓物をさらしているこのキャンパスが「科学的思想の物質化」（学長の台詞）として生まれ変わるのは、まだまだ先になりそうだ。]]>
        
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    <title>オステルリッツ橋</title>
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    <published>2008-03-26T05:09:03Z</published>
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        <![CDATA[<img alt="Austerlitz3.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/Austerlitz3.jpg" width="480" height="232" />

この辺りは3本の橋がそれぞれ約200m前後で隣接している。これまで見てきたように、左岸から右岸へ一方通行のシャルル・ド・ゴール橋、メトロ5号線のオステルリッツ高架橋、そして、右岸から左岸へ一方通行のオステルリッツ橋。これらの中で一番古くからあるのがオステルリッツ橋である。13区と5区の間を通るロピタル（病院）通りがバリュベール広場を通ってセーヌを渡り、12区のマザス広場を通ってルドリュ・ロラン大通りへと続いている。左手には前回に見たメトロ5号線がジェットコースターのように急カーブで入るケー・ド・ラペー駅がある。

<img alt="SDF.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/SDF.jpg" width="480" height="450" />

いまは石造りの重厚なオステルリッツ橋、1807年に落成したときは鉄橋だった。1848年までこの場所に関所が設けられていて、通行が多く重要な橋の一つであった。その後、数カ所にひびが入り危険となってきたため、1854年に柱はそのまま保存してやや幅を広げた石造りのアーチ橋となり、交通量の増加に際して1885年にさらに幅の広い橋が再々建されて現在に至っている。10年ほど前、やはり車の渋滞を避けるためにシャルル・ド・ゴール橋ができて、車の流れをそれぞれ別に担当するようになった（2008年01月号_Vol.027を参照）。

ところで、19世紀初めと言えば、フランス革命後に彗星のように現れた英雄ナポレオンの全盛時代だ。この橋の名前の由来も、1805年12月5日にナポレオンの軍隊がロシア・オーストリア軍を打ち負かした勝利を記念してつけられたもの。「オステルリッツ」は、当時オーストリア領であった戦場の名前である。橋の両側にある広場（Valhubert、Mazas）もこのときの戦いで命を失った軍人の名前だ。ナポレオンは数年後にプルシア軍を破り、その記念に建設されたのが、エッフェル塔近くのイエナ橋。もう、そんなことは過去のことだとしても、現チェコ領であるアウステルリッツや元東独のイェーナから訪れた人たちがこれらの橋を渡るとき、どんな感慨にふけるだろう。

<img alt="Austrelitz22_S.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/Austrelitz22_S.jpg" width="190" height="190" />

さて、パリにはバスチーユから北東郊外のヴィレットまで続く運河がある。映画の舞台となった「北ホテル」やおしゃれなブティックの並ぶサンマルタン運河を北上する観光クルーズは、セーヌ川のバトームーシュと違って、暖かいシーズンだけ小さな船で水の高低を操作しながら進むのんびりコース。バスチーユが出発点だ。船着き場はプレザンス港Port de Plaisanseといい、その水はセーヌ川手前でせき止められている。かつてナポレオンはこの港の周りに3階建ての穀物庫を5棟建てた（1807−1808）。別名「潤沢倉」と呼ばれたこの倉庫群には小麦や食用油、ワインなどがぎっしり保存されていたという。備えあれば憂いなし。華麗なる戦争の天才の一面が垣間見えるようだ。1871年のパリコンミューンで焼けてしまって、現在は残っていない。

<img alt="Presence.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/Presence.jpg" width="480" height="348" />

<img alt="Canal1_S.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/Canal1_S.jpg" width="190" height="190" />

オステルリッツ橋から川下を望むと1kmほど先の右手にサンルイ島のしっぽがあり、左手の遥か向こうに鋭い塔の切っ先が見えるのがノートルダム大聖堂。もう中心に近づいてきたのだ。セーヌ左岸には動物園＆植物園Jardin de Planteがあり、散歩にはもってこいの場所である。猛獣館とか猿小屋とかがパリのど真ん中の5区にあるのは驚く。夜遅くまでひっきりなしに通る車の排気ガスやセーヌ川のバトームーシュの照明やガイドアナウンスは、動物にとっていい迷惑ではないだろうか。

<img alt="Canal2.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/Canal2.jpg" width="480" height="271" />

<img alt="Austerlitz1_S.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/Austerlitz1_S.jpg" width="190" height="190" /> <img alt="JDP_ent_S.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/JDP_ent_S.jpg" width="190" height="190" />

<img alt="JDP_pln.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/JDP_pln.jpg" width="480" height="539" />

年々行き場所を失っているホームレスもこの橋のたもとに暮らしている。これまで見てきた開発の進んだ港湾地域のりっぱな散歩道では居場所がなかったが、この界隈にはテントの集落ができている。これから先はパリの中心部となり物乞いしてもおこぼれに預かりやすいとか、国鉄駅や大病院があって寒中暖をとったり休んだりできるとか、理由はいろいろだと思うけれど、動物園＆植物園の緑が息をつかせるのかもしれない。「花の都」パリのセーヌ川は誰が見ても美しい。この先は河畔に大きな彫刻が点在した散歩道が続く（野外彫刻博物館という名称で呼ばれてます）。夏の夜には花火があがり、タンゴ愛好家が集まって踊ったりしている。そんなときは動物もホームレスも、夜空に花火をあおぎ、タンゴを聴きながら眠るのだ。]]>
        
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    <title>雪は黒い</title>
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    <published>2008-03-25T13:53:59Z</published>
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        <![CDATA[<img alt="yamamoto.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/yamamoto.jpg" width="480" height="688" />

目黒区美術館で開催中の「山本武夫展」は、今日の私たちが忘れかけている日本のグラフィックデザインの実力をいやというほど実感させる、内容の濃い展覧会である。山本武夫の筆から生み出される線や面は、浮世絵や絵巻がもつ伝統的な遠近法や色彩感覚を維持しながら、昭和初期の「モダン」と見事に融合している。最近めったにお目にかかれないデザインにおける「粋」が、美人画、挿し絵、舞台美術、プログラム・・・と、かれの手がけたどの作品（原画）にもすっきりと表現されていて気持ちがいい。400点あまりの出品作品の一枚一枚を見るのには多少時間がかかったが飽きさせる絵は一枚もなかった。

この展覧会でとくに気になった二枚の挿し絵原画がある。昭和30年から昭和31年にかけて『報知新聞』に連載された小説「幕末長恨歌（井上友一郎 作）」の雪のシーンを描いたもの（出品番号58,59）。白いものを白い紙の上に書くことはできないのは当たり前なので、雪を描こうとする画家はいろいろと苦労するのだと思う。とくにモノクロの場合は、雪景色を雪景色らしくみせるのはとても難しいのだと思うが、山本の絵を見て感動したのは、天から降ってくる雪や、道や塀をすっぽりと包み込んだ雪が、その白さとともに、とても生き生きと表現されていることだった。絵を描く人にとっては、こんなことは当たり前のことなのかも知れないが、白と黒というたった二つのチャンネルしかないのだから、選択肢は白地には「黒」、黒地には「白」で雪を描くしかない。何の背景も人物も描かれていない白地に黒の点を描いてそれを「雪」だと言うこともできるし、逆に真っ黒な地の上に白の点を描いてそれを「雪」だと言うこともできる。何れにせよ白い紙なら「黒」、黒い紙なら「白」で表現してそれを雪らしく見せるテクニックが必要となる。

二枚の絵のうち、最初はある藩邸か何かの門の前に、10人ほどの志士たちが刀を抜いて、今にもそこに突入しそうな情景。風のない空からは少し大きめな雪がゆっくり落ちてくる感じである。志士の袴はストライプ、袴から上の上半身は黒、そして空も黒である（つまり夜）。上から落ちてくる雪は、空（黒地）にある時は「白」で、雪が積もった松の木や門塀の屋根（白）を通過する時は「黒」で、志士たちの上半身の着衣（黒）のところだけ「白」になり、最後は地面（白）に描かれた足跡（黒）と区別がつかなくなる。この動きがじつにうまくできている。私たちは天から落ちてくる同じ雪を「白」と「黒」の両方で見ているのである。

二番目の絵は、画面中央の一点が消失点になっている典型的な遠近法。両脇がお屋敷の屋根付塀になっていて、両脇の塀と空と路がこの唯一の消失点に向かって収束していく格好である。道も塀も塀からのぞく松の梢も真っ白だが、遠く（画面の奥）に黒の着物を着た武士らしき二人づれが背を向けて歩いている。空は白（つまり昼間）。はたして雪はほとんどが黒の点で描かれていて、前例と同じく、道に積もった雪の足跡（黒）に紛れている。この絵では遠景の武士の着物（黒）面積が非常に小さいため、この黒の上に「白」の雪は描かれることがなく、雪はすべて黒で表現されているのだが、その「黒い」雪を際立たせるかのように、画面の手前には大きな傘（白）を広げた女の後ろ姿が描かれる。ちなみに傘の下から少しだけ見える女の着物の裾はやはりストライプである。降る雪（黒）の背景をなるべく細い線で描いて、武士の着物と雪の笠をかぶった松の下葉に黒を使う以外は、極力黒を少なくしてある。こうすると不思議にも、黒い雪を見ながら、ほんとうにすっぽりと雪に覆われた銀世界が実感できるのだから不思議だ。

この二作品以外にも、一連のモノクロの挿し絵原画には、例えば「水（川、海）」や「火（火事、蝋燭）」や「雨」といった自然現象が非常にうまく表現されていて、胸が高鳴る思いがした。展覧会の目玉になっている「美人画」の色使い、キモノや髪形のデザインにも、服装研究家としての山本の味が出ていて面白い。イラストレーターを上手に使いこなす若いデザイナーたちには、是非一度見に行って欲しい展覧会だと思った。（工藤孝史）

<a href="http://www.mmat.jp/">目黒区立美術館 http://www.mmat.jp/</a>
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    <title>新刊書籍『L&apos;office des ténèbres：最後の暗闇』のご案内</title>
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    <published>2008-03-05T15:05:11Z</published>
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        <![CDATA[この度、弊社 ファベルは、札幌在住の写真家クリストフ・バゴノ（Christophe Bagonneau）氏の写真集『L'office des ténèbres：最後の暗闇』を刊行いたしましたのでご案内させていただきます。

<img alt="face.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/face.jpg" width="480" height="457" />

クリストフ・バゴノ氏は1967年にフランス、コニャックに生まれ、その後 2001年からは台湾と日本を舞台に活躍する写真家です。これまでに台湾、日本における個展の開催とともに、本国フランスにおいても写真集などを出版しています。

<img alt="G1b_GR.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/G1b_GR.jpg" width="190" height="190" />

『L'office des ténèbres：最後の暗闇』のなかで、クリストフ・バゴノ氏は、"醜い" とさえ思われる男達の"顔"を、生ける人間の "本質的な姿" として、カトリック的な宗教意識からとらえ直すことを試みています。ポートレートに登場する 「白い顔」たちは、四旬節最後の三日間におこなわれるミサ「トリデュウムパスカル」の燃え尽きた蝋燭＝聖灰をモチーフにしています。また一連の肖像には、17-18世紀フランスの神父にして大学教授であったジュール・マスィオン（Jules Massillon）が、亡きルイ十四世の葬儀に際して行ったとされる弔問演説のフランス語原文が挿入されています。
私たち日本人にとっては、馴染みの薄いカトリック教会の儀式をモチーフにしたこの作品ですが、一人のフランス人写真家が見た東洋の"顔"という意味でも興味深いものがあります。この機会にご高覧いただければ幸いです。

<img alt="G3d_GR.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/G3d_GR.jpg" width="190" height="190" /

今後ファベルでは、インターネット時代といわれる現代においてなお、私たちの生活には欠かすことのできない "本の文化" を一層充実したものにすることをめざして、電子媒体では得ることのできない機知に富んだ本づくりに励んで行く所存です。どうぞよろしくお願い申し上げます。

<img alt="G2d.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/G2d.jpg" width="480" height="223" />

【クリストフ・バゴノ経歴】
クリストフ　バゴノー（Christophe Bagonneau）
1967年フランス　コニャック生まれ
2001年よりアジア在住

［エキスポジション］
2008年 :　『最後の暗闇』、門馬ギャラリー、札幌　（７月開催予定）
2007年 :　『ネピリム』、クスィアギャラリー、ウブド、バリ、インドネシア
2006年 :　『イコノスタジス』、アリアンスフランセーズギャラリー、札幌
2005年 :　『イコンノスタジス』、ウアイアンギャラリー、台北、台湾
2005年 :　『ミロフォール』、ウアイヤンギャラリー、台北、台湾
2005年 :　『公現祭』、ウアイヤンギャラリー、台北、台湾
2004年 :　『イコンノスタジス‐聖者伝』、エスリットアートセンター、台北、台湾
2004年 :　『立方体の自画像』、TIVAC、台北、台湾
2003年 :　『マンディリオン』、アリアンスフランセーズ、台北、台湾
2002年 :　『旅を読む』、フランス学院、台北、台湾

［出版］
2008年：『暗闇の暗闇』、ファベル
2005年：『祈祷論』、ドン・イノサン・ル・マッソン著、パロール・エ・スィランス、フランス
2005年：『イコンノスタジス‐聖者伝』、ラ・タンタスィオン・ド・スィランス、台湾/フランス
2004年：『クラスヌーシュキ』、AFT、台湾
2004年：『始めに言葉ありき』、リュドルフ・ド・サックス著、パロール・エ・シランス出版、フランス
2003年：『時祷書』、ラルブル、フランス
2003年：『類似の方向へ』、ドゥニ・ル・シャルトルー著、パロール・エ・スィランス、フランス
2002年：『破片のきらめき』、ラムリエ、フランス
2001年：『エクスタジの年代記』、ドニ・ル・シャルトルー著、パロール・エ・スィランス、フランス

<a href="http://www.christophebagonneau.com/">Christophe Bagonneau ホームページ（仏文）へのリンク</a>


写真集『L'office des ténèbres：最後の暗闇』
ISBN978-4-903798-00-4
本文 56ページ　変形版 245mm×255mm

希望小売価格 2500円（本体 2381円）
発行　株式会社ファベル

本書をご希望の方は下記メールへご注文ください。
<a href="mailto:publishing@faber.jp">publishing@faber.jp</a>
送料、代引き手数料は弊社にて負担させていただきます。

また<a href="<a href="<a href="http://www.kinokuniya.co.jp/04f/d03/hokkaido/08.htm">札幌紀伊国屋書店</a>においてもお買い求めいただけます。]]>
        
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    <title>オステルリッツ高架橋</title>
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    <published>2008-02-21T05:40:20Z</published>
    <updated>2008-02-21T05:56:34Z</updated>
    
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        <![CDATA[前回のシャルル・ド・ゴール橋の目と鼻の先を通るのは地下鉄専用高架橋だ。二階建てのベルシー橋（2007年12月）と違って、この橋を通るのは地下鉄５号線の車両のみ。人も車も自転車も渡ることが出来ない。ウルトラモダンな飛行機の羽（シャルル・ド・ゴール橋のこと）と比べると、二重の放物線のアーチがそう感じさせるのか、アールヌーボー様式が絵になる橋である。

<img alt="Viaduc-d'Asterlitz.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/Viaduc-d%27Asterlitz.jpg" width="480" height="226" />

橋のことをフランス語ではポンPontというが、隣の橋がオステルリッツ橋 Pont d’Austerlitz と呼ばれるのに対して、こちらはオステルリッツ高架橋 Viaduc d’Austerlitzと呼ばれる。ヴィアデュック Viaducは、辞書を見ると「長大橋」。同じようなフォルムで吊り橋になっていたシモーヌ・ド・ボーヴォワール歩道橋（2007年7月）は、架け橋を意味するパスレル Passerelle と呼ばれる。パリの橋のリストではパスレルが３本、ヴィアデュックと呼ばれるのはここだけで、あとの橋はすべてポンという。

<img alt="plan_S.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/plan_S.jpg" width="190" height="190" />　<img alt="viaduc-3_S.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/viaduc-3_S.jpg" width="190" height="190" />

<img alt="viaduc-4_S.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/viaduc-4_S.jpg" width="190" height="190" />　<img alt="1904_S.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/1904_S.jpg" width="190" height="190" />

<img alt="viaduc-1.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/viaduc-1.jpg" width="480" height="345" />

話は少しずれるが、川にかかっているわけではないけれどヴィアデュックと言えばすぐに「芸術の高架橋 Viaduc des arts」が思い浮かぶ。ちょうどこのオステルリッツ高架橋近くの12区で、バスチーユ・オペラの裏あたりから始まって、ドメニル大通り Avenue Daumesnil を南西方向に約１km、赤レンガの橋の下はおしゃれなカフェやギャラリー、様々なアート教室に、上はかつての鉄道線路あとに木々が植えられ、見晴らしのいいお散歩コースとなっている。所々にベンチがおかれ、界隈に住むパリの人の憩いの場所でもある。

<img alt="Viaduc-des-arts.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/Viaduc-des-arts.jpg" width="480" height="343" />

さて、セーヌに架かるヴィアデュックに戻ろう。パリにメトロが走るようになったのが1900年、その３年後の1903年に建設が始まり、1904年末に完成した。すぐ隣にオステルリッツ橋がすでに存在していたため、船の航行を妨げないよう橋脚は河岸のみ、あとは１本の柱もないすっきりとした鋼鉄のアーチ橋となった。長さ140m、幅８,6m、左岸のオステルリッツ地上駅から出てセーヌ川を横切ったあと、90度に大きく湾曲して右岸のケー・ド・ラ・ラペー地上駅へと入っていく。今では当たり前のようなこのカーブ、ジェットコースターみたいで当時の人にはかなりスリリングだったのではあるまいか。オステルリッツ駅は、北駅、東駅、サン・ラザール駅、リヨン駅、モンパルナス駅と並ぶ国鉄駅であり、RER（郊外）線も通っているため駅構内は広く、一日中人の流れが多いが、地下鉄駅ケー・ド・ラ・ラペーのホームはほとんど乗り降りする人がなく、ひっそりしている。近くにはたいしたオフィスもないが、朝のラッシュ時などに少しは込むのだろうか。

<img alt="viaduc-2.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/viaduc-2.jpg" width="480" height="480" />

石の橋脚や鋼鉄部分に施された優雅な装飾を見て、15区と16区に架かる地下鉄6号の通る鉄橋ビア・アケム橋に似ていると思ったら、なんと同じ人のデザインだった。ジャン＝カミーユ・フォルミゲ Jean-Camille Formigue は1845年アルルで生まれた建築家で、1989年のパリ世界万博のプチ・パレとグラン・パレの装飾を担当した。この万博に向けてエッフェル塔が建築されたのだから、当時は鋼鉄の黄金時代だったというべきか。フォルミゲは「フォルミゲ・ブルー」という独特の鋼鉄の色で知られ、その面影が今でもパリのあちこちに残っているという。たとえば、一般の観光客がなかなか足を運ばない場所であはるが、ブーローニュにあるオートゥイユ植物園や、ペール・ラシェーズ墓地、ゴブラン織物博物館など。

<img alt="viaduc-5.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/viaduc-5.jpg" width="480" height="230" />

ところで、フランス人はしょっちゅうバカンスに出ているような気がするが、それもそのはず、夏休みやクリスマス、復活祭だけではなく、たとえば祝日が木曜日か火曜日だったらその間の金曜か月曜を休みにしてしまって連休をとるのだ。土曜日はもちろん休みだから、これで４連休となる。そういうとき、「ポンをする faire le pont（休日に橋を架けるの意）」と言う。火曜日と木曜日が両方休みならヴィアデュックとなって、１週間まるまる休みの長大橋となるわけだ。これでは稼働日がますます減ってしまうけれど、さすがにそれはあまり聞かない。]]>
        
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    <title>シャルル・ド・ゴール橋</title>
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    <published>2008-01-29T00:06:06Z</published>
    <updated>2008-02-08T02:56:32Z</updated>
    
    <summary>Vol.0027</summary>
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        <![CDATA[<img alt="cdg2.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/cdg2.jpg" width="480" height="269" />

左岸のオステルリッツ駅と右岸のリヨン駅を直接結ぶ橋。交通量の多いオステルリッツ橋の渋滞を緩和するために建設された。完成が1996年、オステルリッツ駅方面からリヨン駅方面への一方通行だ。当初ジョンティ橋と呼ばれていたが、1998年に現在の名前になった。2006年に末っ子のシモーヌ・ド・ボーヴォワール橋（2007年07号＿Vol.022を参照）が生まれるまで、パリで一番新しい橋だった。

しかし、なんだかへんだ。これまで見てきた橋とは違いすぎる。シモーヌ・ド・ボーヴォワール橋は見るからに女性的な魅力を備えていたし、ベルシー橋は立派に力強い男性美にあふれていた。それに比して、この中性的なオブジェはいったいなんだろう。両岸を結んでいなければ、「橋」であるかどうかもわからないくらいなのだ。なるほど、飛行機の羽をイメージしているとか。ずいぶん細長いそれが、まるめた両手の指、あるいは二つの花びらみたいに見える橋脚にちょこんと乗っかっているだけで、まるで重力の法則をからかっている。

<img alt="soulapant.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/soulapant.jpg" width="480" height="359" />


この橋、絵描きだったら描きたいとは思わないだろうナ・・・。そう考えたが、この橋を描いた絵がサイトに載っていた。ただし、工事中のであるが（No.5,6,7,8 <a href= "http://www.auboiron.com/ponts-gb/">http://www.auboiron.com/ponts-gb/</a>）。このデザインは、当時開発中のリヨン駅およびベルシー地域の高層ビル街との調和を意識してのことらしい。なるほど、リヨン駅側にはRATPパリ高速交通網の本社をはじめ、ガラス張りの高層ビルが立ち並んでいる。歴史建造物の多いパリ中心部から来ると、タイムトンネルに入ったみたいな錯覚を起こす。

もう古い話になるけれど、いまから20年前、パリに降り立った外国人で、シャルル・ド・ゴール空港の近未来的構造（現在のターミナル１）に驚かなかった人はいないはずだ。一回りするともとの位置に戻るルーレット式円形建築は宇宙衛星みたいだったし、長い長い波打つチューブのような薄暗い廊下は、まるで異次元への通り道だった。すっかり近代化した今、建物のインパクトはさすがにもう失せたけれど、この橋の命名は、あの不思議な感じと因果関係があるように思えてならない。

<img alt="monument.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/monument.jpg" width="480" height="304" />

さて、セーヌにかけられた飛行機の大比翼の上を歩いて渡ってみよう。長さ207.75m、幅31.6mのこの橋は、歩道がやたら広く、ベンチとおぼしき木製の柵が車道とのしきりに使われているほか、のっぺりしている。橋を渡るという緊張感もわくわく感も与えてくれない。河岸に降りて橋を下から眺め、つるりとした楕円形の橋の裏側を見て初めて、そのオリジナリティにはっとするのだ。

<img alt="cdg1_S.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/cdg1_S.jpg" width="190" height="190" />　<img alt="koke_S.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/koke_S.jpg" width="190" height="190" />

<img alt="citerne_S.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/citerne_S.jpg" width="190" height="190" />

<img alt="hockey.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/hockey.jpg" width="480" height="330" />

河岸に不思議なものがある。人に聞くと、この銀色の円形の塔はたぶん船舶用石油タンクではないかと言う。やはり実用的なものだったわけだが、この橋のたもとでは単なるオブジェとしても十分通ってしまう。寒いのにローラーホッケーの練習をしているのは女性たち。にこやかな笑顔が気持ちいい。浮浪者たちが橋の下に寝泊まりしている。石には苔が生えている。テクノロジーの粋と遊びが有機体の密かな息づきと難なく同居している。

<img alt="Eifele.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/Eifele.jpg" width="480" height="320" />

眺めた対岸（13区）に、これまた不思議なガラスの建物が現れた。巨大な緑色の龍のような動物が浮き彫りになっているのだ。さては、これは13区のチャイナタウンの超大物、「陳氏百貨商場」がここまで進出してきたのか、と思ったが、工事主はEiffel。あのエッフェル塔を造ったエッフェルの子孫の会社が建設を進めているのはショッピングモールで、水の上にせり出した緑色の蛇みたいなところは階段通路になるという。光に満ちた水辺の通路。2008年9月オープン時にはぜひここに来て、宙に浮いたような透明のパサージュを通ってみよう。]]>
        
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    <title>ベルシー橋</title>
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    <published>2007-12-17T09:46:10Z</published>
    <updated>2007-12-17T10:03:11Z</updated>
    
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        <![CDATA[<img alt="berci1.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/berci1.jpg" width="480" height="275" />

ローマ時代の水道橋を思わせる２階建てのベルシー橋は、セーヌ川がパリに入って5番目の橋でその上を通るのはメトロ6号線だ。やはり12区と13区をつないでいる。現在は立派な石造りだが、1832年に建設されたときは吊り橋だった。7月革命のあとにできた鉄製の吊り橋は有料で、歩行者馬車とも通行料が課せられたという。ベルシー港湾地域はまだパリに組み入れられておらず、パリ市内に入る検問所前のこの地域ではアルコールが免税だった。そんなわけで水上運輸で各地からワインが荷揚げされ、近辺にワイン倉庫が建ち並びぶ世界一のワイン市場の名をほしいままにしていた。活気にあふれ、多くの芸術家が集まってヴィラージュ（村の意）を形成していた。

最初の吊り橋が強度不足とわかり、1865年に拡張工事で石造りの橋が完成し、通行料も無料となった。その後、1904年にメトロ6号線が通ることになり、1992年にはさらに両側に3車線拡張して、全長175m、幅40m（歩道、車道、高架線下自転車道、車道、歩道）と現在の姿となった。地下鉄下のアーチ部分のデザインは、パティシエ好きの人ならすぐにシャルロットケーキ、でなければミシュランのタイヤおじさん「ビヴァンディウム」を連想させるだろう。

<img alt="ministre.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/ministre.jpg" width="480" height="332" />

右側のベルシー河畔（12区）にすらりとした建物が、やはり橋のように車道をまたいで建っている。フランス財務省（新大蔵省）である。右側の屋上にはヘリポートが設置され、足下のセーヌ川には専用のボート「コンコルド」がいつでも発てるように待機している。スパイ映画のロケに使えそうだ。その手前のベルシー競技場ではスポーツ大会や大々的なコンサートが催される。映画の殿堂シネマテーク・フランセーズもその先に越してきた。

左岸（13区）にはご存知BNF国立ミッテラン図書館がそびえ、ベルシー橋とシモーヌ・ド・ボーヴォワール橋との間には水上プール、ジョセフィン・ベーカーがある。夏はどんなに気持ちいいだろう。パリ最新の地下鉄14番線が通っているが、無人運行のため、大々的なストのときでも止まらない快適かつ最新設備の路線だ。

<img alt="concordo_s.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/concordo_s.jpg" width="190" height="190" />　<img alt="passage_s.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/passage_s.jpg" width="190" height="190" />

ところで、「パリの空の下」という有名なシャンソンがある。メロディを聞けば知らない人はいないだろうそのサビ部分に、次のような歌詞があった。

Sous le pont de Bercy, 　
ベルシー橋の下
Un philosophe assis, 　
物思う人が腰をかけ
Deux musiciens, quelques badauds 　
音楽をかき鳴らす二人に幾人かが足を止め
Puis des gens par milliers　　
その周りを群衆が行き来する

<img alt="village.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/village.jpg" width="480" height="360" />

「パリの空の下、歌が流れ・・・」とリフレインの続くこの歌の中に橋が出てくるのはたった一箇所、それがベルシー橋なのだから、驚いてしまう。もちろん、日本語のシャンソンの歌詞には訳されていないけれど。

<img alt="paysage.jpg" src="http://www.faber.jp/ph/paysage.jpg" width="480" height="251" />

セーヌ川観光船のバトームーシュも通らない、とくに見るべきところもない、操車場と引き込み線の殺風景なもと港湾地域、いまだに工事続きで観光客の関心を引いた例がない場所だが、歴史的にはパリの門として物流の集中した華やかな一時代があったのだ。この界隈に住むパリの庶民の日常の楽しそうな様子がしのばれるではないか。一時はすっかり廃れていたかつてのワイン倉庫だが、今ではショッピングモール：ベルシーヴィラージュとなって生まれ変わり、パリ河畔は世界遺産として整備されつつある。いつかまた、この歌が人気を取り戻し、ベルシー橋のたもとで歌われるようになるのかも知れない。]]>
        
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