2005年03月31日
徒然考
〜水上勉『虚竹の笛』を聞く〜
水上勉最晩年の作品『虚竹の笛』(2001年、集英社刊)は、尺八愛好家の興味よりはむしろ、
小説家としての水上勉が、自らの向き合った「老い」に対してどんな解答を与えていたのかを知ろうとする人々の興味を強く引きつけた作品であったかも知れない。「尺八私考」という副題のついたこの物語は、尺八を巡る歴史の書でもなければ、一休禅師やその友であったと伝えられた虚竹禅師、あるいはまた、普化尺八を日本に伝えたと言われる覚心の話しでもなく、一人の老作家が向き合った「現在」というものを、尺八という楽器に反映させて見せた美しい作品だ。
竹を掘るもの、笛を作るもの、それを吹くもの、それを伝えるもの・・・そうした「現実的」で「歴史的」な人間の営みを、水上は「時空を超えた」虚構の中に収斂させようとしているように見える。この境遇は何か? それは、それを体現する個人の中に深く埋め込まれてなかなかその実体を晒すことのない「秘匿」には違いないが、その一方で、「自然」というとてつもなく大きな存在に向かって開かれている「発現」であるのかも知れない。
先ごろ、NHKのテレビ番組「クローズアップ現代」(2005年2月23日放送)は、作家の晩年の境遇を語った30時間に及ぶ録音テープを素材に、死を前にした彼の心の「揺れ」と「おののき」をある意味では非常にリアルにわれわれに語って見せた。しかしその「おののき」が一方でどこかリアルを超越した「安寧」に通じるものでもあったのは、作家自らが繰り返し語った「而今(じこん)=ただいまのみを生きる」というかれの発見した境地が、同時に「自然(じねん)=あるがままに存在する」という理に通じるからではないだろうか。
水上は、囲炉裏の横で尺八を作っていた父の面影という、ただ一片のイメージから、日本と中国を結ぶ壮大な尺八の物語を綴ってみせた。そこには、回想=想像力という手法によって「今」に特別な力を与えようとする作家が聞こうとする「暗」と「光」の世界がある。その世界の中心に尺八の音があって、作家は静かにこの音を聞いている。読者にもまた、その音が聞こえてくるようだ。この虚心坦懐なオーディエンスに「聞こえている」音=而今へ近づきたいと思った。(K)



