2005年10月07日

徒然考

バッハの練習

J.S.バッハによる「無伴奏フルートのためのパルティータBWV1013」の楽譜を手に入れたのは、パリの中心部にある大きな楽器屋の薄暗い楽譜売り場だった。いまから7、8年ほど前のことで、当時私は、パリのある大学で哲学を研究していた。あまり大きな声では言えないが、この期間中大学へ行くよりセーヌ川にかかる橋の下で尺八を練習していた時間の方が多かった。

眼鏡橋のような石造りの大きな架橋の下は、コンサートホールにも負けないアコースティックに恵まれている。河岸を通り過ぎる観光客や地元の人たちがときどき「おひねり」をおいて行く。不良少年にその「おひねり」を奪われる。たまには警察官に注意される・・・などなど、今思いだすと、この「屋外練習」には日本では味わうことのできないいくつかの醍醐味があった。

バッハの譜面を買いに行ったのは、そんな尺八の練習に「励んで?」いたある日、パルティータの「サラバンド」の部分がラジオから流れ来て、そのフルートの音が自分の中で勝手に尺八の音に変わってってしまったからだった。楽譜と一緒にCDも買ってきて、何度も聞いては、へたな尺八でまねをした。

ラジオから流れてくる「サラバンド」を聞いた時には、想像上の尺八が「理想的に」フルートに取って代わったはずだったが、いざ吹いてみると、イメージしていたのとは全然違う! あれー、なんだこれ? という感じ・・・

私の尺八の技量がこの名曲を吹くには如何にも不足しているのは明らか。でも要するに、尺八音楽のバックグランドとバッハのバックグランドがあまりにも違い過ぎるのを初めて思い知ったような具合だった。単に音色とか音程の問題ではない。実際やってみると、尺八という楽器が伝統的に奏でてきた音の「性(さが)」みたいなものがものすごく強くて、バッハの音づくりと対立してしまうような感じなのである。それと同時にフルートと尺八は全然違う楽器なんだ!と改めて驚いた。

たとえば、出だしの印象的なメロディー「ラシドミソ♯ラファ」も、フルートで聞くといかにも、サラバンドの踊りが「始まる!」感じがするけど尺八でやると、どこか間が抜けて(?)聞こえてしまう。

その意味では「どこからともなく聞こえてきて、どこへともなく去って行く」という「鳴り方」が尺八音楽の根底にあって、古典本曲などはフレーズの前後がいつも「無音の音?」でできている感じが強い。だから、尺八だと、あらかじめ完結した音楽(楽曲)が「これから始まるよ!」といったメッセージを伝えにくいのかもしれない、などと思った。

尺八はどことなく「永劫回帰?」=循環的な音づくりに適していて、バッハのように、いわば自然状態を理性に変えてしまうような音楽(キリスト教音楽の特徴?)にはやっぱりフルートのようにメカニックなアーティキュレーションを「しっかり」表現できる楽器があっているのかな・・・と、変に役に立たない理屈をこねてしまう。けれど、バッハの音楽には、一方で「どんな楽器でも受け入れてしまう」スーパー・アブストラクト(高抽象?)な面もあるから、結局「尺八のバッハ!」を楽しめればそれでいいんだ、と勝手に納得して、相変わらず練習がつづいている。(K)

投稿者 kudo.t : 19:03 | コメント (0)

2005年06月08日

徒然考

〜JAZZと本曲〜

小さい頃(たぶん小学校の後半)からjazzが好きだった。

FM放送はまだ実験放送だったから、ラジオをFEN(the Far East Network)にあわせて、曲名も演奏者もわかららないまま、わけのわからない英語とともにスピーカーから流れてくるピアノやトランペットの音に、大人への憧れを感じたものだった。

その内にFM放送が本格化して、jazzの曲が日本語の解説つきで聞けるようになった(その番組、たしか日曜の午前中にやっていたような気がするのだが、よく覚えていない)。そこでセロニアス・モンクというピアニストを知ったが、それはそれは新鮮な驚きだった。今思えば、それがはじめて覚えたjazzプレーヤーの名前だったかも知れない。

当時はビートルズの名がヒットチャートにのるようになった頃で、盛んに聞いたが、夜の寝床で聞くのは、しばらくのあいだは、やっぱりFENだったような気がする。確か夜10時半から30分ほどjazzをやっていて(これも曖昧な記憶)、それが終わるとダイヤルを変えて「マリコ・アラカルト」(「今晩は、今晩は、もうひとつおまけに、今晩は」ではじまる番組。ニッポン放送だったかな、文化放送だったかな?)を聞くのが楽しみだった。

中学校に入ってブラスバンドで、一応トランペットをやった。けれど、むしろサッカーの方に夢中で、音楽に身が入らず、運動会ではいつも「人がいないのでおまえはシンバルをやれ」といわれていた。マイルス・デイビスのようにトランペットが吹けたら・・・と思って少しだけ練習した時期もあったけれど、結局その後の人生、音楽に関してはもっぱら聞く側で、楽器を演奏できる人を見ると常にうらやましいと思うようになった。

そんなわけで、自分がいい年をして再び楽器に手にするとは思わなかったが、40歳近くになって、ひょんなことから尺八に出会った。やっと自分も楽器を演奏できる!小さい頃からの夢がかなったようでうれしかった。しかしjazzが好きな人間としては困ったことになった。尺八という楽器、最初のうちは音が出ないし音程も悪い。とても音楽というところまでは行かないのだが、音のでるものをもってしまうと、ついjazzが演奏できたらいいなあ・・・と思ってしまうのだ。

ところが、これほどjazzに向いていない楽器もない。それに尺八をやる以上は、もちろん尺八にあった曲を練習するのが本道だし、またそれが一番いい。一方、jazzのリズムとかフレーズを尺八で練習しようとしてもなかなかうまく行かない。才能の問題はもちろんあると思うが、楽器のもっている特性というか、こまかなリズムにのせて粒の揃った音を出すことは、この楽器ではどうにも難しい。尺八を手にしてまもない頃から、そんな板挟みで苦労する羽目になった。

ともあれ、その後下手の横好きで尺八の練習は何とか続いているけれど、音が出てくるようになると、ますますjazzを吹きたいという思いが募ってきてて、板挟み状態のまま、自分なりに空しい努力を続けている。

こうして、素人は素人なりにいろいろと悩んでいたあるとき、古典本曲の練習をしていて思ったことがある。

私は譜面がないとほとんどなにも演奏ができないという典型的な「譜面人間」(譜面以前に身体の中に音楽がある人が本当にうらやましい)で、古典本曲の練習も必死に譜面を眺めながら、ここはどう吹くんだろう・・・と苦戦に苦戦を重ねているのだが、あるとき、譜面に書いてある内容というか、フレーズというのか、そういうものがふと「聞こえて」きたことがあった。

「これだ」と思った。jazzだといわれてる曲はいっぱいあるけど、別にjazzに分類される曲というのが決まっているわけでもない。ある意味では、どんな曲でもjazzになってしまうのだ。逆に、たとえどんな曲でも、もしフレーズがjazzになっていないと、それは決してjazzには聞こえない。古典本曲とすごく似ていると思ったのだ。

細かいことは自分には良くわからないが、jazzフレーズという特定の雰囲気を持ったひとまとまりのリズムとメロディをつかって自分を表現するというアプローチが古典本曲に通じている。それには、譜面通りでも譜面通りでなくても、要するに、自分の中にフレーズが聞こえてこないことにはどうにもならない。

いわゆる「アドリブ」というのは、そういうフレーズの積み重ねで作る自己表現なんだと思う。古典本曲もその点ではアドリブの世界だ。そう考えれば、尺八という楽器がjazzに向いていないとしても、どこかに「尺八にあったjazzフレーズ」というのがあるような気がする。

古典本曲とjazz。全然違うように聞こえるけれど、それは自由自在の音楽だからこそ、また演奏する人にとっては「自分を発見する」音楽なのだと思った。(K)

⇒サマータイム(抜粋)

⇒瀧落(抜粋)

投稿者 faber : 00:00 | コメント (0)

2005年03月31日

徒然考

〜水上勉『虚竹の笛』を聞く〜

水上勉最晩年の作品『虚竹の笛』(2001年、集英社刊)は、尺八愛好家の興味よりはむしろ、

小説家としての水上勉が、自らの向き合った「老い」に対してどんな解答を与えていたのかを知ろうとする人々の興味を強く引きつけた作品であったかも知れない。「尺八私考」という副題のついたこの物語は、尺八を巡る歴史の書でもなければ、一休禅師やその友であったと伝えられた虚竹禅師、あるいはまた、普化尺八を日本に伝えたと言われる覚心の話しでもなく、一人の老作家が向き合った「現在」というものを、尺八という楽器に反映させて見せた美しい作品だ。


竹を掘るもの、笛を作るもの、それを吹くもの、それを伝えるもの・・・そうした「現実的」で「歴史的」な人間の営みを、水上は「時空を超えた」虚構の中に収斂させようとしているように見える。この境遇は何か? それは、それを体現する個人の中に深く埋め込まれてなかなかその実体を晒すことのない「秘匿」には違いないが、その一方で、「自然」というとてつもなく大きな存在に向かって開かれている「発現」であるのかも知れない。


先ごろ、NHKのテレビ番組「クローズアップ現代」(2005年2月23日放送)は、作家の晩年の境遇を語った30時間に及ぶ録音テープを素材に、死を前にした彼の心の「揺れ」と「おののき」をある意味では非常にリアルにわれわれに語って見せた。しかしその「おののき」が一方でどこかリアルを超越した「安寧」に通じるものでもあったのは、作家自らが繰り返し語った「而今(じこん)=ただいまのみを生きる」というかれの発見した境地が、同時に「自然(じねん)=あるがままに存在する」という理に通じるからではないだろうか。


水上は、囲炉裏の横で尺八を作っていた父の面影という、ただ一片のイメージから、日本と中国を結ぶ壮大な尺八の物語を綴ってみせた。そこには、回想=想像力という手法によって「今」に特別な力を与えようとする作家が聞こうとする「暗」と「光」の世界がある。その世界の中心に尺八の音があって、作家は静かにこの音を聞いている。読者にもまた、その音が聞こえてくるようだ。この虚心坦懐なオーディエンスに「聞こえている」音=而今へ近づきたいと思った。(K)

投稿者 faber : 00:00 | コメント (0)

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