FABER

パリの瞳

by 工藤 瞳

Vol.0222007年06月

ポン・ヌフ – パリに現存する一番古い「新橋」

[編集部からのお知らせ:『パリの瞳』はウエッブサイト リニューアルのため2007年5月号はお休みさせていただきました。今月から新シリーズでパリ市内にかかる橋の物語をお届けします。変わらぬご支援をお願いいたします。]

日本で「佐藤さん」や「鈴木さん」という姓が多いように、ここフランスにはDupont(デュポン)、とかMartin(マルタン)という姓が多い。フランス語で橋をPont(ポン)というから、M. Dupont(ムッシュ・デュポン)はさしづめ「橋本さん」というところだろうか。あちこちにデュポンさんがいるのだから、それだけ橋も多いのだろう。

さて、パリの真ん中を流れているセーヌ川。流れがゆっくりで、水面を見てもすぐには分からないけれど、セーヌ川はパリの東側から西側に向かって、つまり地図の上では右から左へ流れている。そこに架かる橋を数えてみた。パリ20区に限ってのことだが、まず、右岸と左岸(地図でみると上が右岸、下が左岸)を直接つなぐ長いポンが21個、パリの中心部、中州となっているシテ島とサンルイ島に渡るミニポンが11個。合計すると32個もの橋が架かっていることになる。長短32ある橋のうち、ポン・ヌフだけは、シテ島の先端を横切る形で左右に広がる二つの短い橋を一つとして数えている。パリの橋物語、第一回はそのポンヌフから始めよう。


ポン・ヌフ – パリに現存する一番古い「新橋」

ポンヌフ3.jpg

 以前「パリの瞳」第一回を書いた時、サマリテーヌから始めた。橋の話になって、またここに戻ってきたのは、シテ島の住民である自分の行動範囲だから、というより、やはり、パリで一番歴史のある橋に敬意を表してのことだ。建設当時はポン・ヌフPont Neuf(新しい橋の意)と呼ばれたが、現存する橋では最古のもの。全長278m、幅28m、セーヌ川に浮かぶ島シテの先端を横切って、大きさの違うアーチが北側(右岸)に7つ、南側(左岸)に5つ伸びている。その両方あわせてポン・ヌフと言う。

それまでセーヌ川を渡る橋はパリに二つしか存在しなかった。当時の橋は、イタリアのベッキオ橋やリアルト橋に見られるように、橋の両脇に建物が付随して建てられ、屋根付きが普通だったが、橋幅が狭く、行き来が制限され、常に渋滞を呈していた。そのため、16世紀の中頃から第三の橋の必要性が叫ばれていた。最初の提案から25年後の1578年、5月31日、アンリ三世によって着工式が行われた。その朝、決闘で失った二人の息子の埋葬をすませたばかりの王の泣きはらした赤い目を見て、人々はこの橋を「涙橋」と噂したそうな。

工事はその後も順調には行かず、経済的行き詰まり、宗教戦争、政治抗争などの困難を経て、アンリ四世下の1603年、ようやく完成に至った。橋が落ちるのでは、と危ぶまれた6月20日の落成式も無事にすみ、小間物、菓子、古本などの屋台が立ち並び、そこへ歯抜き屋(?)、油売り、秘薬売り、踊り子、歌うたい、軽業師がひしめき合って、通行人の足を引き止めるようになった。この新しい橋はまたたく間に市民の憩いの場となったのである。

建物のないポン・ヌフ(新橋)には、ほかにも4つの新しい特徴があった:
・20mを超える橋幅(最初は建物も同時に建築する予定だった)
・歩道がついている(その後200年もの間、どの橋にも歩道はなかった)
・橋の両脇に半月形にせり出した小バルコニーがいくつか装飾されている
・軒蛇腹に「マスカロン」(柱頭に装飾された怪人面)がずらりと並んでいる

ポンヌフ広場.jpg

長い年月の間、石の老朽化や洪水などの傷みから何度も復旧工事が行われたが、現在のポン・ヌフは建設時の姿に近いものになっている。シテ島の先端部分と重なる小さな広場に行ってみよう。馬に乗った銅像はアンリ四世。そう、あの、ナントの勅令を出し、自らプロテスタントからカトリックに改宗して宗教戦争に終わりを告げた国王、通称ナヴァール王アンリである。

その広場から階段を下に降りていくと船着き場になっていて、「ブデット・ド・ポンヌフ」Vedettes de Pont Neufというセーヌ川観覧船の乗り場になる。当時は橋のたもとに艀(はしけ)のようなものがいくつも並び、そこで住民が洗濯や水浴びをしていたというから、ここもかつての名残なのだろう。それにしても、この水の汚さにビビってしまう。昔は少しましだったのだろう。まさか、この水質で平気で洗濯や水浴びをしていたとは思えない・・・。ポン・ヌフのアーチ型の橋脚を見上げる形になるこの場所、今は小さな公園になっていて、若者たちが日光浴やピクニックなどをしている。橋の下まで来ると「マスカロン」がよく見える。ちょっと見、怖い面ばかりだが、こういうものを装飾としてつけるのは「厄よけ」なのだろうか。それにしても、どれとして同じ顔がないのに驚く。ここから見えるだけでもどれもすべて違った表情だが、この橋に彫刻された385個の顔全部を確認してみたくなってくる。私がパティシエだったら、マカロンならぬマスカロン人形焼きを売り出すのだが。

マスカロン.jpg


さて、再び階段を上って橋の上に出ると、右岸(左側)がサマリテーヌ(現在改装中のデパート)、かつてはその名の通り、ルーブル宮への給水場があったところ。左岸(右側)はちょっと先の貨幣美術館へと続く。正面に中世時代を彷彿とさせる小さなレストラン、ブティック、画廊が一塊になっているが、向こう側はシテ島だ。

サマリテーヌ側の半円形バルコニーでは、若い恋人たちが夕日を背に愛を語っている。「ポンヌフの恋人」。革命200周年の際、このタイトルの映画を撮った監督レオス・カラックスは撮影のため寸分違わないポンヌフを再現したらしい。私はジュリエット・ビノシュがどうしてもダメなので見ていないが、彼女は元サマリテーヌの売り子さんだった。フランスでの厳しい映画評にも関わらず、日本ではなぜか大ヒットした作品だ。その秘密は案外、最古の橋ポン・ヌフが主役だったからではないだろうか。

ポンヌフの恋人1.jpg


ポン・ヌフと言えば、1985年のクリストのパフォーマーイベントを語らずにはいられない。橋全体を布で覆ってしまったのだ。残念ながら、私はその時まだパリに住んでいなかったが、その様子は絵はがきで見ることが出来る。橋を布でまるまる包んでしまうという発想も奇抜ながら、くるまれたポン・ヌフの美しいことにも驚く。まるでドレスをまとった貴婦人のよう。やはり、こんなところがパリなのだ! フランス革命を生き延び、第二次大戦の爆撃も逃れた最古の橋ポンヌフ(新橋)は、橋そのものが歴史建造物であり、美の都パリになくてはならない象徴だ。

セーヌ川の橋を地図で確認

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