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夢野久作『ドグラ・マグラ』の正常

2007年06月25日

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 人間誰でも変態だと言われれてそれを肯定する人はどのぐらいいるだろうか。女子学生のスカートの中を携帯電話のカメラで撮ったり、下着を盗んだり、果ては子供を誘拐して殺してしまったりと、数え上げればきりがないほど「変態」が多い世の中だから、自分はそんな人間と一緒にされては困ると言う人が圧倒的に多いに違いない。


 ところが、反対に、人間誰でも正常だと言われてそれを肯定する人となるとどうであろう。たしかに、ほとんどの人は自分を正常だと思っているにちがいない。しかし、人間誰でも正常だと言われると、全面的にそれを肯定する人はそれほど多くはないはずだ。何故だろうか。一つには、自分のことはさておいて、上述のように人間社会には実際に変態が横行しているという事実(つまり人間は誰でも正常というわけではない)。もう一つは、変態とまでは行かないにしても、人間には誰でも「少し変わったところ」があるから、その意味ではどこまでが「正常」なのか、自分を含めてその境界を確立することが難しい点にある。とりあえず少々の「変」は、それが害になるものでなければ「正常」の域であろう。


 言うまでもないことだが、変なものとか異常なものへのレッテルは貼りやすい。また優れたもの抜きんでたものへのレッテルも貼りやすい。厄介なのは「正常」という基準だ。「変わったところがない」ことを正常だと言うのなら、人間だれしも個性というか、それぞれ人と違ったところをもっているから、人間は本来正常ではないはずだ。もし「悪いところがない」ことを正常だと言うのなら、人間だれしも多少悪い面をもっているので、これまた人間は本来正常ではない。にもかかわらず、私たちには「正常」という価値基準が立派に成り立っている。一人一人は多少変わっているけれど、あくまで「正常」の域にあるという基準だ。もしそこを逸脱すると変態ということになる、この正常の境界、そして中味とは一体何なのだろうか。


 夢野久作の代表作とも言われる「ドグラ・マグラ」(1935年刊)は、異常を際立たせることによって正常を見極めようとする労作である。「正常」とは「異常でないこと」という定義はできるが、それ自身がどんなものかを単独では定義できない相対的なものだ。だから、異常を知ることによって、私たちは正常の本質に近づける。夢野がこの作品の根底に据えている考え方は、きっと次のようなものなのだと思う。


1)人間は特異であるが故に普遍的である
2)人間は変態的であるが故に正常である
3)人間は不道徳であるがゆえに道徳的である


「ドグラ・マグラ」の一節に曰く。「平ったく言えば赤い煉瓦に入る程度にまで露骨でない悪党と、キチガイを一緒にしたものが、いわゆる、普通人・・・もしくは紳士淑女ということになるであろう。」彼が言いたいのはきっと、常識的世間は個性(つまり人それぞれに違った本性)をみかけの画一的な「正常」の名のもとに抑制している人間の集まりにすぎないということである。この抑制がきかない人間、あるいは処世術を含め抑制の仕方を知らない自然児的大人、またあまりにも純真過ぎる人・・・などなどが、普通人からは変人ないしは変態扱いされる。


 しかし、正常とは絶対的な価値でも基準でもなく相対的なものだ。「全体から見て」普通であること、あるいは単に、良くも悪くも「異常」でないものを言うのだから、これが正常だという内実があるわけではない。実際には、それぞれに個性的な人間同士が自分と違った本性を「共有」することによって、正常の中味と領域は形成されるのだ。ただし、お互いが違う価値観とか本性を共有するのはとても難しいことだ。いいかえると、人間が「正常」の域を形成するというのは、本来骨の折れることだ。そういう苦労を厭わずにお互いを理解したり助けあったりすることがなければ、もともと人間社会の正常は獲得できないはずだ。


 ところが、そんな面倒くさいことはやめて、最初から「正常」という形式的基準を設けて、それに人間を当てはめようとする社会的流れもある。また、なるべく異常なものに触れないという純粋培養で「正常」を生産しようとする機運もある。儒教や朱子学といった形式的道徳を精神的なバックグランドとしてもつ私たちの国では、特にその傾向が強いかも知れない。また最近は現実の世の中に、あまりにも異常なことや変態的なことが多いから、仕方のないことかも知れないが、今の日本には、「異常」を嘆く声はあっても、この異常を自分も含めた人間の「個性」や「本性」の問題として捕らえるエネルギーがなくなってしまったようだ。


 昭和時代の初めに、夢野久作は形式的「正常」がもつ空虚さを喝破するために、エロ・グロ・ナンセンス・猟奇、変態趣味という小説手法を存分に用いて、人間の「異常な本性」を描いた。こんなことが実際にあってはたまらないと思うのは当然だが、こういうフィクションをとおして、私たちは「正常」の意味を考えることができる。これは大いに道徳的価値のあるフィクションなのだ。平成時代はその名とは裏腹に、その深部に得体のしれない暗いものがうごめいている。表面だけが「平成」なのだ。このみせかけの「平成」を打ち壊す、真に力のあるフィクションに出会いたいものだ。


 世間の大半は自分を「正常」だと思っている。そして実は、実際に事件を起こす変態的人間の多くもまた、自分を「正常」だと思っている。自分を「異常」つまり「人とは違うところのある」人間だと自覚している人の方が圧倒的に少ないのである。しかし、異常を知らない正常、醜さを知らない美しさほど危険なものはない。最近はやりの「美しき国日本」の伝統には、夢野久作のような作家の遺産も含まれることを忘れたくない。(小坂夏男)

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