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北欧バルト海洋上で「世界平和」を祈るアイヌに感動!

2009年05月28日

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 今から39年前の1970年の2月、北国のくらしの先進国、北欧の国々を訪ねる「スカンジナビア デザインツアー」の25日間の旅があつた。まだ海外視察などあまり無い時であったが、当時札幌は快適な北国のくらしを模索し、北海道では、「北方圏構想(1971)」の生まれる前年、住宅分野では「無落雪建築のフラットな屋根」ができ始めたり、窓周りを「二重のサッシ」にしたり、断熱材を屋根裏や壁、床に入れる工法が盛んになったり、今の耐寒住宅の基礎研究が真っただ中の時代であった。暮らしも、外の窓ガラスに屋外寒暖計を吸盤で取付け、家の中から外気温を確認してその日の着る物を決め、外出する準備をしたものである。「雪を味方にくらそう」、そんなスローガンが生まれ、「スカンジナビアカラー」と言うビビットな色使いや、「アルバー・アールト」という建築家の名前、作品が注目されたのもこの頃である。正に積雪寒冷地の北海道のくらし方が大激変しょうとしていた時でもある。 


「スカンジナビア デザインツアー」は、当時の若いデザイナー、クリエーター、学生たちから人気を博していた北欧文化の理解者である、北海道教育大学教授の伊藤隆一(故)さんを団長として、副団長には、広告代理店電通のイベントプロデューサー名畑八郎(故)氏がつき、私たちを引率してくれる事となっていた。参加メンバーといえば、全道から、函館森町のスーパーのオーナーや、阿寒湖温泉からアイヌの彫刻家の床ヌブリさん、同じく千家盛雄さん、札幌から帽子のデザイナーの先生や北大の建築科の学生、建築家のたまご、家具デザイナー、インテリアデザイナー、イラストレーター、彫刻家、デザイナーのたまご達(当時の)、今ではそれぞれの業界を仕切っている大御所ばかり。メンバーは合計15人位だったか。とにかく、素直(純)な、色とりどりの個性的でユニークなメンバー構成であった。


 旅も中盤に差し掛かった頃、スウエーデンから砕氷船(フェリー)に乗ってフィンランドに航る時の事である。夜に船に乗り、氷を割る音を聞きながら寝ている私たちの所に、早朝4時〜5時頃だったか、千家さんが「お祈りを始めるので、来てくれないか」と私たちを起こしに来たのです。凍りつくような寒さの中、副団長と4人で甲板に出て船首に行ってみると、そこには、アイヌ衣装で正装した、床さんと千家さんが御幣を飾った祭壇(小刀でその場で作ったもの)の前に座り、祭事に使う食器や道具を手にして、お祈りの準備をしていた。彼らの後ろに座る様に言われるとすぐに、「これから私たちは世界平和と、この大地の神々と海の神々に旅の安全をお願いするお祈りをします」と祭事が始まりました。イクパスイと云う木製の小刀の様なものにお酒を付けて、四方に振り、お祈りが無事終わったその時、私は、身震いするような、鳥肌のたつ感激を覚えた。私にとっては、見るものや所作が初体験、しかも北欧の厳冬の海の上、海面や遠くに見える陸地も真っ白なまだ朝日の昇る前の空気が止まって居る様な、シーンとした世界。あたりは「夢か」と思うような神秘的な空気に包まれていた。又、「世界平和のために」と言う言葉が、二人のアイヌをさらに輝かせ、衣装のアイヌ文様がますます輝いて見えた。まさに自然との共生の原点をかいま見た瞬間でもあった。


 そんな、感動的な体験と出会いから間もなく40年が経とうとしている。その間、床さんは、彫刻家として、道内は元より、カナダの彫刻公園や演劇や出版、ユネスコの活動や有名芸術家との交流など、各方面で精力的に活動し、阿寒湖温泉アイヌコタンの指導者として、又、後輩の指導者として尽力しています。千家さんも同じく、彫刻の傍ら、アイヌの語り部として、温泉街で観光客や教育関係者にアイヌ文化の伝承をしておられます。尊敬の念から生まれたお付き合いですが、今は、阿寒アイヌ工芸協同組合の西田正男代表理事、(組合の取りまとめやアイヌ民族の会議、演劇の演出と出演)専務理事の秋辺日出男さん(国際会議、講演、出演、演出、コラボのプロデュース)など、先住民、アイヌ文化紹介など積極的に取り組んでいるリーダーのお二人を始め、スタッフの皆さんには大変お世話になっており、私もそれが縁で時々アイヌコタンのイメージづくりなどのをお手伝いさせて戴いております。感動の出会いは、好ましい絆となり、永遠に続くものだと思う、又、その秘訣は作法、礼節を知ると云う事でもある。私はよく「西野さんは何故、アイヌの方々と親しいの?」と聞かれます。そんな質問に答える意味で今回、長い古くからのお付き合いの中から、感動した旅の出来事もその一つと云う事で書いてみました。

西野 昭平(株式会社クリエート工房 代表取締役)

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