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Vol.042

シャンジュ橋 2010年08月21日

(お詫び:都合により長い間お休みしていた「パリの橋物語」ですが、再び連載を開始します。どうぞよろしくお願いします)

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パリの地図を広げてみると、セーヌ川が「へ」の字型に街を横切り、セーヌ川の中ほどは大小二つの中州となっている。それらの島の両側には、まるで「ミズスマシ」の足のようにいくつもの橋が架かっている。もともとパリ発祥の地であるシテ島近辺だから、昔から橋があったところであり、しかも往来も激しいから橋だらけ。その「橋激戦区」の最後を飾るのがこのシリーズ第一回のポン・ヌフだが、その一つ手前の、シテ島から右岸に渡るところに位置しているのが、シャンジュ橋である。


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前回からの続きでいうと、左岸からシテ島に向かってサン・ミッシェル橋を渡り、それを背中にシテ島の目抜き通りであるパレ大通りを約800m進む。右手にパリ警察庁と商事裁判所、左にステンドグラスで有名なサント・シャペルを含む最高裁判所(入り口の素晴らしいこと!)、角に中世の牢獄コンシエルジュリーが見えたらもう島は終わって、再びセーヌ河畔となる。通りを挟んで向かい合ったコンシエルジュリ-と商事裁判所の前にはバス停があり、数多くのバス路線が両方向を走っている。道路が広いので車の量もかなり多い。


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そのままシャンジュ橋を渡ると右岸のシャトレ広場にたどり着くが、広場の左側の1区にはシャトレ劇場、右側には4区のパリ市民劇場が、向かい合って建っている。シャトレといえばパリの交通の要の一つだ。地下鉄の大きな乗り換え地点で、1番、4番、7番、11番が東西南北に乗り入れているし、シャトレから地下道でつながるレ・アルではパリ郊外線RERのA線、B線、C線、D線が交差している。


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さて、ローマ時代から、セーヌ川のこの地点には中州があったが、島から左岸(川幅の狭い方)に渡るに架かる橋がプチ・ポン(小橋)、右岸(川幅の広い方)に渡るに掛かる橋がグラン・ポン(大橋)と呼ばれていた。正確には今のシャンジュ橋と同じ場所ではないが、右岸にはすでに、紀元1世紀ぐらいから橋が架けられていたことになる。


そのグラン・ポンが壊れた9世紀、シャルル禿頭王(2世)の治世に、そこから少し下流に橋が架けられた。この橋は災害のため1596年に水害で流され、次の橋も1616年1月の大水で大破、何度も橋を架けては壊れ、時代によってはここに平行して2本の橋が架かっていた時期もあったという。ようやく1本だけになったとき、新しい橋はシャンジュ橋と呼ばれるようになる。


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名前の由来は、この橋の上にシャンジュー(両替証人)たちが居を構え、農業収益を金に換えていたためであった。当時は宝石商、彫金師、両替商が橋の上にぎっしりと店を連ねていて、橋からはセーヌ川が見えなかったという。この橋は1621年に火災で焼け落ちてしまうが、橋の上に住む商人たちが資金を出し合い1639年から1647年の間に7つのアーチのある立派な石造りの橋が架けられた。これは当時パリでもっとも幅の広い橋であった。1740年に改築されるが、1786年、橋の上の建造物は最終的に取り壊しとなった。


ところで、シテ島を横断してシャンジュ橋を渡ると、シャトレ広場となるが、この場所はかつて牢獄であり、リヴォリ通りを超えた先は、長い間、墓地だった。墓地を持たないパリ中の教会区から死人が運ばれて来る死体置き場には、屍が山と積まれていたという。そして、そこから少し入ったところに12世紀から市が立っていたが、16世紀以降、食品専用の市場となった(現在のレ・アル駅付近)。そのため、この近辺には食肉用の屠殺場も設置され、動物の血糊と屍骸、生暖かい臓物の匂いが充満し、一方、牢獄では拷問された罪人たちの断末魔のうめきや叫び声が響く・・・。そう、今では見る影もないが、オスマン男爵が1850年代にパリ改造計画を始めるまで、ここは、パリで最も恐ろしく、いかがわい一帯だったのである!


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1855年、死体置き場は噴水のある広場に、食品市場はパリ中央卸売市場に生まれ変わった。エミール・ゾラ(1840 - 1902年)いうところの「パリの胃袋」である。そこで夜中から朝まで働く労働者たち。彼らの馴染みのレストランの出す安くてうまい料理目当てに市民もどっと詰めかけ、レ・アルは活気に溢れた。時代が下って1969年、「パリの胃袋」中央卸売市場は郊外に移転し、レ・アル界隈は少し寂れてしまう。その跡地にフォーラム・デ・アルという一大ショッピングセンターが出来るのが1977年。同じ年に超現代的な建物ポンピドゥ・センターが建って賛否両論、話題をさらう。それから30年あまりが過ぎ、この一帯は、週末ともなれば郊外の移民家庭の青年たちがRER線(パリ郊外線)に乗ってやって来てたむろする場所になった。付近一帯は歓楽街でもあり、ポップで過激なファッションの若者たちの往来が目立つ。セックスショップが建ち並び、街娼たちもちらほら立つ、少しいかがわしい界隈、それが現在のレ・アルだ。その北側奥には、パリでも有数の規模を誇るゴシック様式の由緒あるサント・ユスタッシュ教会がそびえている。


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さて、ロンドンに遅れること30年、パリでも地下鉄工事が始まる。それを機に、オスマン男爵のパリ大改造計画の一環として、シャンジュ橋は1853年から1860年にかけて建て替えられて、長さ103m、幅30m3つのアーチをもつ現在の橋となった。アーチにナポレオン3世のマークNの字が刻まれた装飾は、この時代に建設されたほかの橋と同じである。


この新しいシャンジュ橋は広々としていた。橋の上の上流(現在のノートルダム橋)側には市が立ち、始終人だかりがしていたし、下流(現在のポンヌフ)側では馬車や、馬の引っ張る路面電車が往来し混雑した。その名残か、現在でも、シテ島には花市と小鳥市、シャトレに渡った先には花市やペットショップが建ち並んでいる。左岸の上流側からコンシエルジェリーをバックにして眺める橋の姿は、セーヌに架かる橋の中でもとりわけ中世のムードたっぷりの絶景となっている。


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もともと宮殿だったコンシエルジェリーは14世紀から牢獄となり、革命後、ここに幽閉された人たちが次から次と断頭台に送られた。別名「ギロチン控えの間」である。サド侯爵も一時、ここに幽閉されている。現在は観光名所となっていて、当時の独房の様子を蝋人形で再現している。革命に関わり、独房の寝床は藁だけ、あるいはベッドと書斎とか、捉えられた囚人の格によって広さも待遇も違う。マリー・アントワネットの牢獄だけはかなり広かったが、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言ったオーストリアの皇女の部屋からシャンジュ橋は見えない。彼女はここで2ヶ月半、何を思って過ごしたのだろうか。


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最後に、ドゥブル橋(Pont au Double)のところで出た、橋の名前に由来する宿題について。フランス語に興味のない方はスルーしてください・・・。
フランス語でシャンジュ橋をPont au Change と書く。パリのセーヌ川に架かる橋の名称は、ほとんどの場合が固有名詞とpont(橋)を「・・・の」にあたるdeでつなぐか、pont(橋)のあとに固有名詞をそのまま続けるかであるのに対し、この二つだけは例外的にpont(橋) のあとにauがきている。これはà+定冠詞の約束事だが、le change(両替)、le double(二倍)を「伴う」橋といったニュアンス。ほかの橋と違って、「通行税を2倍払わされる橋」であり、「その上で両替のなされる橋」という性質からきた名称なのだろう。

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