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〜選択した記事〜

Vol.034

ルイ=フィリップ橋 2008年09月18日

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自由の女神が胸もあらわに三色国旗を掲げている絵「民衆を導く自由の女神」は、画家ウージェーヌ・ドラクロワの名作だが、これは1830年の7月革命を象徴的に描いたものだという。この7月革命で、最後のフランス王であるブルボン王朝のシャルル10世は打倒され、分家のオルレアン公ルイ=フィリップが国王に迎えられた。「統治するとも君臨せず」。彼はフランス国民の王となり、フランスは初めて立憲君主制を知ることとなった。


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その3年後の7月29日、革命の起きた「栄光の3日間」を記念して国民王ルイ=フィリップが最初の石を置いたのが、ルイ=フィリップ橋である。真ん中に凱旋門のような門を構えた吊り橋として、1年後に完成。しかも、現在の橋とは違って、セーヌ川に直角にぶつかるルイ=フィリップ橋通り(おなじ年に名付けられた)からサン・ルイ島の切っ先をかすめてシテ島のフルール河岸に斜めに架かっていた。


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7月革命ではじまった7月王政だが、この体制の「市民」とはごく少数の富裕なブルジョワジーのことであり、ルイ=フィリップは彼らを擁護する政策をとっていたため、労働者の不満がつのり、再び1848年2月に革命が起きてしまう。斜めにセーヌ川を横切っていた長い吊り橋は、この革命騒ぎで南側が焼け落とされ、1852年に再建されたときは「改革橋」という名で呼ばれるようになった。


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その後、発展を続けるパリの交通量は飛躍的に増え、幅の狭い改革橋では間に合わなくなったため、取り壊される。今度はルイ=フィリップ橋通りからその延長線上に、セーヌ川を直角に横切ってサン・ルイ島へのびる橋が建設される運びとなった。長さ100m、幅15、2mの現在の橋の工事が1860年に始まり、2年後に開通。ときはナポレオン3世のご時勢となっていたが、その橋にフランス王政最後の王ルイ・フィリップの名前が冠せられたのだ。


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ちなみに、オルレアン公ルイ=フィリップは、7月革命で王位に就くまで波瀾万丈の人生を送っている。母方がブルボン家の血筋をひき、もともとルイ16世の従兄弟にあたるが、フランス革命が勃発すると、当時16歳で青年将軍として革命軍に身を投じる。父であるフィリップ平等王は国王(ルイ16世)の処刑に賛成するが、その当人もやがて断頭台の露と消え去る。若きプリンス、ルイ=フィリップはオルレアン公を継承し、国外亡命。逃亡先でマリー=アントワネットの姪と結婚して8人の子を儲け、スイス、アメリカ合衆国からスカンジナビア諸国、イギリスでの逃亡生活ののち、ようやく母国の地を踏んだのは1914年だった。1830年に7月革命が勃発して担ぎ出されたときはすでに57歳。1773年生まれのルイ=フィリップがこの橋に最初の石を置いた年は、彼の60歳の誕生を祝ってのことだったのか。放浪のプリンスの感慨はどんなだったろう。


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さて、前回のマリー橋(Vol.033 2008年06月)から、セーヌ川を右手に見ながら右岸を散歩する。川縁の下の道は信号のない自動車道だ。月曜から土曜まではひっきりなしに車が通るため渡ることは不可能だが、今日は日曜日、歩行者天国の日である。朝早いこの時間、まだ通る人もまばらだ。そこを渡って河岸に出てみる。数年前、この岸にテントを張り、炊事までしている人があった。小さいドラム缶に火をくべていたその男性はちょっとヒッピー風のひげ面で、SDF(ホームレス)というよりは、世捨て人か隠遁者、あるいはさすらいの旅人のように見えなくもなく、薄ら寒い秋の夕方、そうしてセーヌの川縁で焚き火をしていたのだ。ブルーがかった重苦しいグレーの陰鬱な世界で一人オレンジ色の炎を自由にあやつっている、その姿を橋の上から凍えながら眺めていた私には、ずいぶん贅沢で風流な趣味人のように見えた。こうした街角の詩人は残念ながら一掃され、すぐに消えてしまう。それともどこかに秘密の扉でもあるのだろうか?


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階段を上り、橋のたもとに出る。右手に花に囲まれたかわいいカフェバーやレトロなレストラン、その奥は少し上り坂になった石畳のバール通り。ちょっと中世のムードが漂うお散歩コースである。元に戻ってサン・ルイ島に向かって橋を渡ってみる。これまでの橋と違って石畳なのが特徴だ。野暮な交通表記やラインがなくてホッとする。橋の上から右手にサン・ルイ島の先端が見え、その先にシテ島がある。吊り橋だった最初の橋は、このアングルでシテ島まで架かっていたのだ。上方に見える黒い先端はノートルダム大聖堂の塔で、右手にカテドラルの白い正面が見える(真っ黒だった中世の建物が90年代にきれいに洗い流されたのだが、さすがにあの先端の汚れだけは無理だったのだろう)。ということは、昔の橋はノートルダムを目指して架けられていたことになる。橋を渡る人たちの正面にはいつもあのカテドラルがあったわけだ。


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さらに進むうち、サン・ルイ島のブルボン河岸に近づく。朝早いので人がほとんどない。カフェも開店したばかり。いかにもサン・ルイ島住民といった風情の、優雅だがさりげない服装のマダムが一人、やはりそれらしい小型の犬を連れてお散歩している。おや、川縁に降りる階段下に妙な穴を発見。あれはいったい?


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つい好奇心につられて階段を下りてその穴までいき、おそるおそるのぞいてみる。が、ただのがらんどう。橋の下にはよくこういう小さな空間がある。おそらくかつて道具などをしまっておく小屋だったのかもしれないが、そのほとんどはあばら屋のような状態で放っておかれている。10年ほど前ならまだ、地下生活者の巣窟とでも言えるような負のイメージをかき立てる場所としてロマンが膨らむ余地もあったことだろうが、セーヌ河岸が世界遺産となって以来、おまわりさんがひっきりなしにパトロールするようになった。不思議感のうすいただの空洞に少しがっかり。それとも、時間によっては、タイムマシンになったりして?

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