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〜選択した記事〜

Vol.030

オステルリッツ橋 2008年03月26日

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この辺りは3本の橋がそれぞれ約200m前後で隣接している。これまで見てきたように、左岸から右岸へ一方通行のシャルル・ド・ゴール橋、メトロ5号線のオステルリッツ高架橋、そして、右岸から左岸へ一方通行のオステルリッツ橋。これらの中で一番古くからあるのがオステルリッツ橋である。13区と5区の間を通るロピタル(病院)通りがバリュベール広場を通ってセーヌを渡り、12区のマザス広場を通ってルドリュ・ロラン大通りへと続いている。左手には前回に見たメトロ5号線がジェットコースターのように急カーブで入るケー・ド・ラペー駅がある。

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いまは石造りの重厚なオステルリッツ橋、1807年に落成したときは鉄橋だった。1848年までこの場所に関所が設けられていて、通行が多く重要な橋の一つであった。その後、数カ所にひびが入り危険となってきたため、1854年に柱はそのまま保存してやや幅を広げた石造りのアーチ橋となり、交通量の増加に際して1885年にさらに幅の広い橋が再々建されて現在に至っている。10年ほど前、やはり車の渋滞を避けるためにシャルル・ド・ゴール橋ができて、車の流れをそれぞれ別に担当するようになった(2008年01月号_Vol.027を参照)。

ところで、19世紀初めと言えば、フランス革命後に彗星のように現れた英雄ナポレオンの全盛時代だ。この橋の名前の由来も、1805年12月5日にナポレオンの軍隊がロシア・オーストリア軍を打ち負かした勝利を記念してつけられたもの。「オステルリッツ」は、当時オーストリア領であった戦場の名前である。橋の両側にある広場(Valhubert、Mazas)もこのときの戦いで命を失った軍人の名前だ。ナポレオンは数年後にプルシア軍を破り、その記念に建設されたのが、エッフェル塔近くのイエナ橋。もう、そんなことは過去のことだとしても、現チェコ領であるアウステルリッツや元東独のイェーナから訪れた人たちがこれらの橋を渡るとき、どんな感慨にふけるだろう。

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さて、パリにはバスチーユから北東郊外のヴィレットまで続く運河がある。映画の舞台となった「北ホテル」やおしゃれなブティックの並ぶサンマルタン運河を北上する観光クルーズは、セーヌ川のバトームーシュと違って、暖かいシーズンだけ小さな船で水の高低を操作しながら進むのんびりコース。バスチーユが出発点だ。船着き場はプレザンス港Port de Plaisanseといい、その水はセーヌ川手前でせき止められている。かつてナポレオンはこの港の周りに3階建ての穀物庫を5棟建てた(1807−1808)。別名「潤沢倉」と呼ばれたこの倉庫群には小麦や食用油、ワインなどがぎっしり保存されていたという。備えあれば憂いなし。華麗なる戦争の天才の一面が垣間見えるようだ。1871年のパリコンミューンで焼けてしまって、現在は残っていない。

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オステルリッツ橋から川下を望むと1kmほど先の右手にサンルイ島のしっぽがあり、左手の遥か向こうに鋭い塔の切っ先が見えるのがノートルダム大聖堂。もう中心に近づいてきたのだ。セーヌ左岸には動物園&植物園Jardin de Planteがあり、散歩にはもってこいの場所である。猛獣館とか猿小屋とかがパリのど真ん中の5区にあるのは驚く。夜遅くまでひっきりなしに通る車の排気ガスやセーヌ川のバトームーシュの照明やガイドアナウンスは、動物にとっていい迷惑ではないだろうか。

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年々行き場所を失っているホームレスもこの橋のたもとに暮らしている。これまで見てきた開発の進んだ港湾地域のりっぱな散歩道では居場所がなかったが、この界隈にはテントの集落ができている。これから先はパリの中心部となり物乞いしてもおこぼれに預かりやすいとか、国鉄駅や大病院があって寒中暖をとったり休んだりできるとか、理由はいろいろだと思うけれど、動物園&植物園の緑が息をつかせるのかもしれない。「花の都」パリのセーヌ川は誰が見ても美しい。この先は河畔に大きな彫刻が点在した散歩道が続く(野外彫刻博物館という名称で呼ばれてます)。夏の夜には花火があがり、タンゴ愛好家が集まって踊ったりしている。そんなときは動物もホームレスも、夜空に花火をあおぎ、タンゴを聴きながら眠るのだ。

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