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〜選択した記事〜

Vol.038

アルコル橋 2009年02月07日

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22年前、わたしのフランス上陸第1日目。朝6時半に空港に着き、迎えに来てくれたフランス人の友人に連れられて一番に来たのが、シテ島のノートルダム広場だった。田舎から出てきた彼女にとってもパリは未知の街なのだった。ノートルダム(我らが貴婦人)すなわち聖母マリア様の名を冠した教会はフランス各地にあるけれど、シテ島内にあるこの建物は1163年に着工、1345年に竣工された、パリでもっとも古い大聖堂である。真冬だったので真っ暗な中、カフェで時間をつぶし、夜明けとともに(といっても8時半ごろ)カテドラル内部を見て、脇の小さならせん階段を上って鐘楼を目指した。あの頃は観光客も少なく、すぐに登れたのだ。何百段あったのだろう、息が切れ、目が回った。見晴らしのいい回廊に出ると、ほっぺたがしびれるほど寒かった。朝もやに煙るパリを見回したあと、鐘楼をさして彼女がいたずらっぽく言った:ほら、カジモドの仕事場よ!


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文豪ヴィクトール・ユーゴー原作の「ノートルダム・ド・パリ」。あとになってその話を読んでからも、わたしはカジモドをずっと実在の人物だと思っていた。舞台は15世紀。醜いせむし男カジモドが美しいジプシー女エスメラルダに優しくされて、恋をする。カジモドの育ての親でノートルダムの聖職者フロロもグレーヴ広場で踊る彼女を見初め、婚約者のいる彼女を自分のものにしようと罠にかけ・・・。ドラマチックなこの作品は何度も映画化され、ミュージカルやバレエ作品にもなっている。新しい映画の冒頭場面では、フロロが最初にエスメラルダを見かけるのがこのノートルダム広場になっている。


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ところが、原作にあるグレーヴ広場(Place de laGrève)というのは、シテ島ではなくてセーヌ右岸の、現在のパリ市庁舎前広場のもとの呼び名。この場所はセーヌ川の港だったため、砂場を意味するgrèveから来ているのだ。中世以降、この広場はまた、公開刑場の役目も果たしてきた。1792年、4月25日、ちっぽけなこそ泥にすぎなかったかわいそうなニコラ=ジャック・ペルティエが当時の最新の斬首道具ギロチンで初めて処刑されたのも、ここだった。革命時には群衆の目の前で数多くの首が飛び、血が流された。


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【パリ市庁舎】


さて、大聖母堂(ノートルダム)前広場からこの血なまぐさいグレーヴ広場に向かう道はセーヌ河岸につきあたり、革命前には橋は存在しなかった。シテ島とこの広場を結ぶ橋ができるのは1823年まで待たなければならない。


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始めは橋脚のある二径間の吊り橋がかけられた。当時は人々が渡るだけだったのが、交通量が増えるに連れて、車も通れるよう、都市計画に沿って1854年に架け替えられた。長さ80mになるアルコル橋である。その由来には、ナポレオンがオーストリアを破ったときのアルコレの戦い(1796年)から、というのと、フランス7月革命のときに若い共和主義者が死ぬ間際に名乗った名前にちなむ、と二説あるらしい。アルコル橋は、セーヌ川初めての橋脚を持たない連鉄製、当時の最新技術を駆使したアヴァンギャルドな橋だったが、1888年2月にたわみが発見され、補強工事が施された。1995年にも補修工事がされている。


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フランス各地へパリから○○キロと言うときの起点ともなっているノートルダム大聖堂は、フランスのカトリック教会の総本山であり、パリの中心だ。そこから右岸に向かうアルコル通りを通って、アルコル橋まで出てみよう。


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橋のたもとのフルール河岸をちょっと右手を降りたところに小さなビストロ兼酒屋がある。シテ島側のこの辺りは昔、サン・ランドリー港といって、木材、穀類、酒はもちろん、干し草まで荷揚げされる一大商業港だった。ビストロ「カジモドの酒蔵」は、1240年にすでに「タヴェルヌ・サン・ニコラ」という名前の飲み屋だった! この店の地下2階に下りると、現在では壁で塞がれて殺風景な蔵になっているが、かつてはセーヌ川の船着き場に通じていた。つまり上下に出入り口があったのである。


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その昔、「カルトゥーシュ」という神出鬼没の怪盗がパリで暗躍していた。この民衆の味方は実在の人物で、ここは彼が当局に追われたときの逃げ道の一つだったという。日本のネズミ小僧とは違って、人も殺したらしい。情けはあっても悪党には違いなかった。カルトゥーシュは味方の裏切りから当局に捕まり、1721年、11月28日、29歳で、やはりグレーヴ広場で重犯罪者として車裂きの刑に処された。このビストロの上の壁に刻まれた昔の通りの名前がなぜか、地獄通りrue d'Enferとなっている。


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そのかつての地獄通りにある真向かいの建物の地下にも、パリの歴史が隠されている。こちらは祈りの場所で、パリ最古の礼拝堂サン・テニャンLa Chapelle Saint-Aignan(1116年)。12世紀はじめのパリの聖職者であり政治家でもあった貴族エチエンヌ・ド・ガルランドの私邸として建てられた。一般公開されていないため、ふつうは見ることができないが、年に1度、数時間だけ公開される。伝説によれば、この界隈に住んでいた娘がジプシー青年の奏でる音楽の虜になるが、親に禁じられ、恋するあまり、寝込んでしまった。チャペルに祀られたマリア様の肌が死者のミサのときに黒ずんできたという…。


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21世紀の現在、この建物の3階に住む75歳になるB氏は一人暮らし。毎日窓からアルコル橋を眺めて暮らしている。橋の向こうにウルトラモダンなポンピドゥセンターの原色の赤と青が見えることにももう慣れてしまった。朝は裏の建物から若い司祭たちのグレゴリア聖歌で目が覚め、朝食をとり終わったら散歩に出かける。いつものカフェ「エスメラルダ」のカウンターでコーヒーを立ち飲みして戻る。午後になると、橋の上でジプシーのアコーデオン弾きが毎回同じメロディを奏でる。彼にはそれが憂鬱だ。アコーデオン弾きがいなければ、サックス吹きやタムタムがやってくる。アフリカで長いこと暮らした彼は、神も信じないかわり、エキゾチシズムにも興味はない。我慢しきれなくなると警察に通報しては取り締まってもらうのだが、大道芸人たちは性懲りもなくやってくる。何か不思議な磁場に引寄せられるかのように。

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