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〜選択した記事〜

Vol.033

マリー橋 2008年06月26日

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左岸からトゥルネル橋を渡ってサン・ルイ島に入る。橋よりも道幅の狭いその道はドゥ・ポン通り(Deux Ponts:二つの橋の意)と言い、約200m行くともう島を横断したことになって再びセーヌ河畔に出る。そこにかかっているのがマリー橋だ。長さ92m、幅22m、それぞれ形の異なる五つのアーチからなる石橋。パリで最も古くに建設されたものの一つで、現存する橋ではポン・ヌフの次に古いことになる。

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前にも書いたとおり(2008年5月号 Vol.0031)、現在のサン・ルイ島の前身は二つの小島だったが、それを一つにして橋を架ける開発計画は1605年から提唱されていた。ようやく王の承諾を得て、実際に建設が始まったのが1614年(サン・ルイ島が建設された年)、しかし橋が完成して人が通れるようになるのは1635年だから、じつに21年後である。いくら中世とはいえ、ずいぶん気長な話ではないか。はじめからそれを構想し、最後までやり遂げたのが、鉄の意思の人クリストフ・マリーだった。そう、この橋の由来は女性の名前ではなかったのだ。「マリー」というので勝手に女性の名と思い込んでいたのは、私の完全な勉強不足だった。

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さて、この建築業者マリー氏の事業は橋が完成したあとも続いた。というのは、この時代、橋は往来の場所であると同時に人が住む場所でもあったから、行政側の要請を汲みいれつつ、橋の機能や景観を壊さず住民の意思も反映しながら、そこに50軒の家や商店が建てられることになった。ところが、この橋の上に住む人たちの家は、1658年のある晩、増水の折に島側のアーチが流されて一夜のうちに三分の二が消えてしまうのである。流された人60人。残った半分の橋から島へ渡る木橋ができるのが2年後、そこに料金所をもうけて石橋建設の資金の足しにして、ようやく1670年に流された半分が元に戻るのである。

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ここでおかしなことが起きた。流されなかった部分、もとの橋の上には家が建ったままだが、新しい部分には家を建てなかったのだ。遠くから見たら歯が欠けたように見えただろう。1658年の大洪水の被害で22軒の家族が家も財産もなくしてしまった悲劇を再び繰り返さないためにという当局の判断だ。1740年にはこの橋に残った家も取り壊され、その後、パリ中の橋の上の家は徐々になくなり、1788年にはすっかり消えてしまう。

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さて、サン・ルイ島までぶらぶら歩いてみよう。冒頭のドゥ・ポン通りからマリー橋に向かって左の角に、たしかジャズのライブハウスがあったはずだ。いつもジャズ専門のラジオ局でその名前を聞いている店だが・・・どうも工事中のようだ。改装かな?と近づいてみると、なんと売りに出されていた。中世そのままの石造りのレトロな内装をときたま外からのぞきつつ、いつか入ってみたいと思っていたジャズバーだったが。その2軒隣には日本のフレンチレストラン「○○松」があった。こちらも数年前に店をたたみ、今でも売り手がついていないようだ。古き良きパリの風情が残るサン・ルイ島の北側の通りは商売に向かない場所なのだろうか。

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島側から橋を見て右側がアンジュー岸、左側がブルボン岸。古い景観の残る河岸を散策するとカミーユ・クロデールの家、ジャン・ジャック・ルソーの住んだランベール館、ボードレールの通ったローザン館など、17世紀の館がちらほら見える。

右岸のオテル・ド・ヴィル(市庁舎)通りの下を通っているのは、信号で渋滞する道を通らずにベルシー方面へ抜けることのできる自動車道だ。日曜日は歩行者天国となり、家族連れや仲間同士で散歩する人たちをローラーや自転車が追い越していく。五つ目のアーチが自動車道をまたいでいるが、かつての川を埋め立てて整備したものだろうか。

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マリー橋を渡って右岸の左手からセーヌ河畔の古本屋ブキニストが店を出している。地下鉄7号線の駅Pont Marieポン・マリー(「マリー橋」の意)があり、その向こう一体が国際芸術家村。各国の音楽家、画家などが住み、時にはコンサートや展覧会などが行われている。まっすぐ行って右手にもとアンリ4世妃マーゴ王妃の館だったサンス館、その裏に骨董品街ヴィラージュ・サン・ポール。少し歩くと左手に写真美術館、そのまま歩くと地下鉄1号線サン・ポールの駅まですぐだ。ひっそりと佇むマリー橋界隈は派手さこそないが、古き良きパリを偲ぶ孤独な夢想者が散策していそうな場所である。

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