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〜選択した記事〜

Vol.041

サン・ミッシェル橋 2009年08月24日

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パリの発祥地であるシテ島とサン・ルイ島の周りには多くの橋がかけられている。地図でみると、2匹の「ゲンゴロウ」がセーヌ川に沿って縦に並んでいるような格好だ。そのうち、サン・ルイ島の切っ先を通るシュリー橋(Vol.031)とシテ島のしっぽを通るポン・ヌフ(Vol.022)は長く一気に左岸と右岸を結んでいるが、そのほかは、短い橋を渡って島を通り、また短い橋を渡る。それがいくつもあって、名前もストーリーも異なるのだ。そんな橋「激戦区」のフィナーレを飾るのがポンヌフ(Vol.022)だが、今回の橋は、そのひとつ手前(上流)の左岸側に架かっているサン・ミッシェル橋である。

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シテ島から橋を渡った先はサン・ミッシェル大通り。左手が5区、右手が6区である。5区にはローマ人の当時の生活の片鱗がいまも残っていて、300mくらい行ったところにローマ人風呂跡(現在クリュニー美術館)、大通りにはないがリュテス円形競技場(モンジュ通り)などが有名だ。旧カルチエ・ラタン界隈を散歩していると、古代ローマ時代の壁の跡が見られるのが面白い。

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サン.ミッシェル大通りをもう少し行くと、左側に1211年創立のソルボンヌ大学が見えてくる。宮廷司祭ロベール・ソルボンが貧しい神学生のために学寮を設立したのが始まり。ソルボンヌ大学の校舎は通りを挟んだ6区にもある。さらにまっすぐ行くと右手にリュクサンブール公園が広がる。

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中世にはシテ島に王宮パレ・ロワイヤル(現在の最高裁判所)があったが、この時期まで、左岸から島へ渡る橋はプティ・ポン(Vol.040)だけだった。ところが、シテ島にはノートルダム大聖堂やオテル・デュー病院もあったため、往来が激しくなり、橋は込み合って不便になってきた。そこで、当時シテ島の反対側から右岸へ渡るグラン・ポンがあったので、1378年、そこからまっすぐ左岸に抜ける橋を建てることになった。工事は1379年から十年近くかかって完成し、その橋はポン・ヌフと呼ばれる(現在のポン・ヌフとは無関係)。ちょっとややこしいけれど、まぁ、ポン・ヌフ=新橋なのだからしょうがない。

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当時の例に漏れず建物付きの石橋。それを建てるための工事に、猫の手も借りたかったため、何の知識も技術もない街頭の浮浪者が用いられた。いやはや。監督も不行き届きだったのか、案の定、出来が悪く、1408年の洪水であっさり流されてしまう。その次に架けられたのが1416年落成の木製の橋である。なぜ木製かというと、英国との100年戦争の間にフランス王国の経済が疲弊していたため。が、こちらも1547年、船の衝突により17戸の家屋を上に乗せたまま崩れ落ちてしまう。この間、シテ島の王宮にあったサン・ミッシェル・チャペル(現在のサント・チャペル)を記念して、1424年、橋にこのチャペルと同じ名前が冠せられて、これまでのポン・ヌフがめでたくサン・ミッシェル橋となった。

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次にかけられた橋も木製で1549年から王族から商人、聖職者など、さまざまな人をシテ島に渡す役目を果たすが、1616年の大洪水で流され、1618年から1624年までの工事を経て、今度は32軒の建物を乗せたりっぱな石橋となる。これがずいぶん長持ちした。1809年、老朽化と橋幅の狭さから立て替え工事が決定され、これまで4つだったアーチを3つにして船の航行がしやすくなった新しい橋は1857年に落成し、現在に至っている。

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格別美しくもなければとくに華やかな話題に富んでいるわけでもない。この橋をわざわざ見に来る人は誰もいないだろう。しかし、噴水のあるサン・ミッシェル広場は待ち合わせ場所の定番で、左岸の橋のたもとには地下鉄4番線のサン・ミッシェル駅とRERのB線、C線の出入り口があり、ひっきりなしに人や車が橋の上を行き来している。誰もが格別意識もしないで幾度となく通っている橋ではないだろうか。

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ナポレオン三世の第二帝政時代に建てられた橋の特徴で、橋桁の中央に大きく「N」のマークがつけられている。サン・ミッシェル橋の幅は30メートル、長さは62メートル。島を抜けて右岸のシャトレに向かう橋もほとんど同じ形態をしているが、そちらはシャンジュ橋という。島にかかるほかの橋とこの二つの橋が違う特徴は、対面通行でバス路線が何本も通っていること。ときにはバスが数珠つなぎに連なることもあり、かなりの交通量を支えている。華やかな場所に縁の下の力持ちあり。

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さて、「パリは燃えているか?」という米仏合作映画(’66年)について話したい。監督はルネ・クレマン、フランシス・フォード・コッポラも脚本に加わった、歴史に基づいたドキュメンタリータッチの名作だ。ドイツ軍に占領されたパリが、地方で密かに進められていたレジスタンス運動と連合軍のノルマンディー上陸によって解放される直前の話だ。まだ見ていないのなら、映画ファンならずともぜひ見るべき一本だと思う。誰もいないサン・ミッシェル橋をドイツ軍の戦車が通るシーンが、白黒の映像美で描かれる。

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敗戦の色濃いドイツ軍の総統ヒトラーが、どうせ降伏するなら腹いせにパリを爆破せよ!と破壊命令を下す。いくら背水の陣とはいえ、パリを焦土に化そうとは、ヒトラーはパリが憎かったのだ。ところが、いくら総督の命とはいえ、ドイツ軍の指揮官にはそれはできなかった。最終的に命に従わず、パリは破壊から救われる。そこに至るまでの模様を手に汗握る緊張感で演じる大物俳優の面々。仏独米英関係を把握し、歴史への理解を深めるために、人間、とくに西洋人を洞察する上で、そしてパリの美を見いだすために、あるいはただ単に映像の力を再確認するためにも、絶対おすすめの作品だ!

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最後に、サン・ミッシェルとは、大天使聖ミカエルのこと。英語のマイケル、ロシア語のミハイルという名前は大天使ミカエルに由来し、フランスでもミッシェルはよくある名前だ。サン・ミッシェル橋の前の広場奥の泉の上にこの大天使が高くそびえている。カトリック教会ではミカエルに捧げられた教会や修道院があちこちにある。アヴランシュ司教の夢に何度も出てきて岩山に聖堂を建てさせたのが、あの世界遺産モン・サン・ミッシェルとなった。

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