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〜選択した記事〜

Vol.040

プティ・ポン(小橋) 2009年05月22日

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 セーヌ川の中州シテ島のちょうど真ん中を通って右岸から左岸に抜ける道路、その名もシテ通りを、左岸に向かって歩く。右手に地下鉄4番線のシテ駅とパリ警視庁、左手にはオテル・ディユー病院、そしてノートルダム大聖堂前広場がある。(ドゥブル橋No.037 2009年01月参照)。そこから左岸に渡る橋がプティ・ポン。ローマの英雄カサエルが「ガリア戦記」(紀元前58〜51)に書いているくらいだから、ここはパリで一番古くから橋が架かっていた場所である。最初はグラン・ポン(大きい橋:現在のノートルダム橋)との比較でプティ・ポン(小さい橋)と呼ばれていた。


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地図で見るとよくわかるが、現在でもこの部分は左岸が微妙にせり出して川幅が極端に狭くなっている。この場所にプティ・ポンという名の橋が何度も架けられては壊れたり流されたりしてきた。シーザーが見たのは五つのアーチ橋でもちろん木製だったが、中世に入り、1185年に初めて石の橋となった。それが1196年に崩れ、その後もかけ直されては何度も洪水や凍結で崩壊する。


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1394年から1406年にかけてシャルル6世が、建築家レイモン・ド・タンプルに指揮を取らせて三つのアーチの石橋を建築するが、できてまもなく洪水で流されてしまう。ところで、それまでシテ島には王宮(現在の裁判所)があったのだが、父王シャルル5世が1364年からルーブルを改築したときも同じ建築家に任せた。1409年から1416年にかけて再建し、シャルル6世はこの橋をパリ市に贈与する。城塞から王の邸宅となったルーヴルに移り住んだあとだったから、良きに計らえ、ってことだったのか。このプティ・ポンは何度も災害に遭い少しづつ疲弊していきながら17世紀の終わりまで持ちこたえるものの、最後は火災という運命が待っていた。



1718年、4月のある晩、川で溺れた子供の亡がらを見つけようと、婦人がボートに乗ってローソクを手にこの辺りを捜していた。彼女のボートが干し草を摘んだ輸送船とぶつかり、干し草に火が移って、プティ・ポンの下で燃え盛り、石造りではあったが一部が木であったため橋は焼け落ちてしまう。もちろん、当時の橋だから、上に家屋が乗ったまま、がらがらと。橋は翌年、すぐに架け直されるが、今度は上に建物のないすっきりした橋となる。


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この場所はセーヌ川が極端に狭くなる。街の近代化に合わせて河岸の整備が進んでいた頃、この川幅に三つのアーチでは船が通りにくく不便ということになった。となりのドゥブル橋も三つのアーチだったのが1848年に一つのアーチとなっていたので、1850年、同じくアーチ一つの橋に建替えられ、1853年に完成した。これが今残っている橋である。装飾の一切ない地味な橋、プティ・ポンは今でもパリで一番小さい。長さ32m、本当にかわいい橋だ。幅のほうは20mあり、歩行者天国のサン・ルイ橋(長さ67m幅16m)やドゥブル橋(長さ45m幅20m)と違って、ややずんぐり型、短いながらもれっきとした自動車道だ。古代からあったローマ人の通り道を北から南へとつないでいる。プティ・ポンを渡った通りがプティ・ポン通り、その先はサン・ジャック通りとなり、右手にソルボンヌ大学、左手にパンテオンのあるカルチェ・ラタン地区へと続いている。


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橋を渡って左岸モンテベロ河畔がわにパリ郊外線RER「C」線ノートルダム−サン・ミッシェル駅の出入り口がある。右手のサンミッシェル河岸19番地にはかつて画家のマティスが住んでいた。現在ではお土産屋、バー、ホテルが並ぶ超観光地だが、どんなに小さな屋根裏部屋でも、そこからの眺めは超一級だから、どれほど絵心を刺激されたことだろう。もっともマティスはフォービズムの作家として認められていたから、立派なアトリエだったのだろう、高い位置から見たノートルダム大聖堂を描いたのが1905年頃である。後のマティスの絵を見ると、こうした風景がかならずしも画家にインスピレーションを与えたものでないとはいえ、早い時期にこうした風景にどっぷり浸かっていたからこそ、あの鮮やかで軽やかな境地にたどり着いたのではないのだろうか。


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橋を渡って左手のモンテベロ河岸にはカフェ・バー・レストランが並ぶ。どんなに寒くてもテラスで語らう人たちの目の前にはやはりノートルダムがある。観光客で一杯だ。となりはレストラン、そのとなりはイギリス人経営のシェイクスピア&Co. という英語本専門の古本屋だが、何となくいわくありげな老人やパンクの若者など雑多なお客でにぎわっている。そう遠くないところにカナダの古本屋あり、イギリス式ティールームあり、パブ形式のバーも多く、カフェ・バーでは毎晩ジャズライブをやっている。建物も古い歴史地域のせいでここら辺は英語圏の人のお気に入りなのだろうか。ハローとギャルソンがすぐに英語で話しかけてくる。

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