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〜選択した記事〜

Vol.016

「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」マリー=アントワネットの田園生活 2006年11月19日

ヴェルサイユで大々的な撮影が行われたソフィア・コッポラ監督の映画「マリー=アントワネット」は、当地フランスでは今ひとつ話題にならなかった。絢爛豪華な宮殿と広大な大庭園。あまりに有名な観光名所の片隅に、王妃の作ったほっとする自然空間があるのをご存知だろうか。ここを訪ねると、歴史上希代の悪女として民衆の面前で処刑されたわがまま王妃の別の面が見えてくる。
オーストリアの王女マリア=アントーニアは生後6ヶ月でフランス国王の孫ルイ=オギュストとの婚約を運命づけられた。1770年、14歳で王太子妃マリー=アントワネットとなり、まだ言葉もよく分からない異国での宮廷生活が始まる。
仰々しい礼儀作法を強いられるベルサイユでの生活は、ウィーンの家庭的な宮廷で奔放に育った彼女には窮屈で仕方がなかっただろう。音楽やダンスが得意で、7歳の時に神童のモーツァルト(6歳)からプロポーズされたマリーにしてみれば、狩猟と錠前作りが趣味の地味な夫なんて相手にしていられない。パリに出て遊びに夢中になり、つい浮かれ騒いでは宮廷の敵意と不評を買ってしまう。
1774年にルイ16世が即位した際、マリー=アントワネットにダイヤモンドがちりばめられたリボンのついた鍵が与えられる。大宮殿のほかに、二つの離宮があったが、プレゼントされたのは、ルイ15世が愛妾ポンパドール夫人のために建てたプチ・トリアノンの鍵だった。以来、そこは王妃のお気に入りの場所となり、堅苦しい宮廷政治を逃れて、このシンプルな長方形の小宮殿で過ごすことが多くなる。
造園家ル・ノートルによる幾何学的なフランス式大庭園も苦手だったのだろうか、マリーはプチ・トリアノンの庭園を野趣に富んだ中国−イギリス風に作り替えてしまう。湖のまわりに四阿、音楽堂、そして岩山や洞窟にしだれ柳と、エキゾチックな魅力たっぷりの楽しい小道になっている。彼女の無邪気ないたずら心が見え隠れするよう。愛の殿堂ではスエーデン貴族のフェルセンとの逢瀬を重ねたろうか。
後年、子宝に恵まれてから、彼女はさらにプライベートな隠れ家を作り出す。「Le Hameau de la Reine王妃の村里」と呼ばれる小集落がそれだ。ノルマンディ風の藁葺き屋根の農家(現存は一部のみ)、水車小屋、鳩小屋、乳製品調理室、マルボロー塔(英国風の丸くとんがった建物)など10戸ほどからなるこの集落を作ろうと思い立ったのは、当時流行していたジャン=ジャック・ルソーの自然回帰思想に影響されたものらしい。1785年ごろ完成した。


農民一家を実際にそこに住まわせ、自分も農婦の格好をしてヤギの乳搾りをしたり、生みたての卵をとりに出た。農婦姿で肖像画を書かせたりして、宮廷の大ひんしゅくを買った。王妃専用の家にはビリヤード室もあり、パリから招かれた友人たちが不自由なく暮らせた贅沢な村でもあった。

「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言った(ことになっている)マリー=アントワネットは、無惨にも、その数年後には国家反逆罪の罪で断頭台の露と消えてしまう(1793年)が、ここでは自然の中で生きる喜びを存分に味わっていた。王妃ならではのスノッブな遊びとも言える。

ところで、彼女のこの台詞Qu’ils mangent de la brioche(彼らはブリオッシュを食べるように)は、現代の芸術至上主義+享楽的な人たちが口にする「パンがなければ…」という意味合いではないようだ。
まず、当時のブリオッシュは現在のようにバターや卵で出来たお菓子ではなく(そうなったのは18世紀後半から)保存食であったため、農家に出入りして、それを知っていたとすれば、それほど非常識な発言とはならないし、彼女の発言かどうかさえ定かではなく、じつはあとから反王制派が広めた濡れ衣の可能性が大きいとか。このフレーズのもともとの出所は、上記のルソーがその20年以上前に書いた回想の中(1740年頃の話)に、さる大公夫人がそう言った、とあるらしい。
軽率で独りよがりな彼女には宮廷にライバルが多く、スキャンダラスな「首飾り事件」(王妃の名を語った詐欺事件)の被害者であったにもかかわらず、悪評や中傷が絶えなかった。周囲の思惑に無頓着な、ナチュラル思考の人、と言えばいいだろうか。長い間改装中だったこの村は、そんな王妃の一面をかいま見させてくれる。
また、フォンテーヌブロー宮殿では、2月5日まで「マリーアントワネットの閨房1786年」展を開催中。

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