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〜選択した記事〜

Vol.014

飢餓撲滅のためにボリュームアップ!−テクノパレード2006 2006年09月20日

この地球上で4秒に一人、飢えで人が死んでいく。そのことに心を痛め、飢えをなくすためにテクノミュージックで踊ろう。人々の友愛精神と創造性を高め、また、若く新しい音楽の才能も発掘するという目的で、今年もテクノ・パレードが開催される。テクノポールtechnopolという非営利団体が主催しているが、今年のスローガンは「飢餓撲滅のためにボリュームアップ!」

彼らのサイトを見ると「今年はテクノポール10周年、ハウスが生まれて20年だ!」と書いてある。でも、ハウスっていったい何のこと? テクノと言えば、80年代に詰め襟ジャケットを着て歌っていたイエロー・マジック・オーケストラを思い出すけど(テクノカットなんて言葉も流行ったっけ)。ちょっとオタクっぽい人たちの単調でクールな音楽と思っていたので、毎年、この時期に街頭で踊りまくる人たちを見ては、首を傾げていた。「テクノで踊れたかな?」

まず、ハウスの説明から。1980年代の半ば、ニューヨークからシカゴに招かれたDJがゲイの集うディスコ「ウエアハウス」でパーティを催し、ミックス手法で音楽を提供した。それがハウス・ミュージックとして定着したのだが、その場所に集う人たちが音楽に身を任せ、人種や性別、階級を超えて一体となるような世界を作り上げた。音楽的にはソウルやジャズを引き継ぐハウスは、ドラムマシンを使用し短いフレーズを繰り返す奏法で、独特のリズム「四つ打ち」が聴く者に陶酔感をもたらすのが特徴だ。民族音楽なども統合して行く。
一方、テクノは、シンセサイザーなどの電子楽器を用いて反復的なビートを特徴とする実験的、より現実的な音楽世界であり、政治的、思索的な側面も持つ。反復が多くリズムは単調である。音楽的に源泉の違うハウスとテクノはいずれもヨーロッパや日本に渡り、様々な音楽形態を巻き込み、いまや区別のつかないジャンルのようになってきている。(以上、おおざっぱに集めた知識による)

と、ここまで見てみると、なんとなくつながった。つまり、音楽による人間宣言みたいなハウスが生まれて20年、音楽によって世界を変えていこうという意気込みのテクノポール結成から10年、先ほどのスローガンはそこらへんから出てきたのだ。音楽活動を社会的に位置づけるイベントなのである。彼ら曰く、まず、これはお祭りだ。みんなで踊ろう。そして、街頭に繰り出して社会に訴えよう。

私の古い記憶の中ではテクノ=無機質な音楽というイメージだったが、チューリッヒやプラハ、ベルリンにも同じようなパレードがあるように、ヨーロッパでは、ハウスの流れを汲むテクノが愛と抵抗の音楽、創造力あふれる人間的なメッセージとして受け入れられているらしい。それが若い人たちを中心に広く受け入れられているから、こうして思い切り音に陶酔して踊れるのだろう。

去年に引き続き、今年のテクノパレードの朝もあいにく雨だった。それでも、お昼前になると、若い子たちはおしゃれを決めて街に繰り出していた。小雨の中で出会ったあまりにかわいい女の子たち。なんとまだ14歳。いいなー、若いって。

だんだん晴れてきて、それぞれ模様をこらしたトラックがガンガン音楽を鳴らしながら通りかかるたびに大変な人手になる。道路はもちろん、バス停の屋根に登って踊る人たちも。

午後になって太陽が顔を出すと、ますます込み出し、身体障害者や中年のテクノおじさん、赤ちゃんまで、誰もがみんなこの騒ぎを心から楽しんでいるようだ。やっぱり、踊らなソンソン?

ノー天気なように見えても、世界から飢餓をなくそうという熱いスローガンを掲げて踊るのだ。まわりと一体になって陶酔するというのはユートピア的でいい。エトランジェの私もしばし孤独を忘れて群れに混じってみる。

ところで、このテクノパレードの第三の目的である、アーティスティックな点はどうだろう。それぞれ工夫を凝らしたトラック、日本で言うと、お祭りの山車というところか、それが今年は21参加している。ラジオ局や、ディスコクラブなど、様々なスポンサーの車が通り過ぎるが、アートという点では、近年、ちょっとマンネリ、というか、レベルが下がっているように思う。

協会の名誉会長ソフィー・ベルナールが旗揚げした最初の年(1988年)は、ファンタスティックで芸術的なパフォーマーがいたし、回るコースにもサンジェルマン・デ・プレが入っていた。今ではバスチーユ界隈に限られ、機動隊が数多く見守る中、若者たちが羽目を外すだけになってしまったようだ。
http://www.technopol.net/technoparade/
technodiaporama.html/tp1998.html
(写真は一部、去年のもの)

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