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〜選択した記事〜

Vol.026

トルビアック橋 2007年11月29日

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セーヌ川がパリに入って3つ目の橋となるトルビアック橋を超えると、ようやく工事現場を抜けて左岸に人の住む気配が見えてくる。かつては工場地帯だったパリの場末。そこに匂っていたはずの雰囲気もすっかり失せ、その面影すらない。古いレンガ造りの建物は90年代にすっかり取り壊され、階下は事務所か店舗やレストラン、上はアパートのといったガラスばりのビルが建ち並ぶ超モダンな地域に様変わりした。橋のたもとにおしゃれなオーガニックレストランがある。

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上流のナシオナル橋を背にトルビアック橋に立つと、左手には国立ミッテラン図書館(13区)、正面に次の橋シモーヌ・ド・ボーヴォワール橋(2007年7月号に紹介)、右手にベルシー公園(12区)が見える。セーヌ川の両側には船のレストランが止まっている。春夏には正装した人たちが甲板でシャンパン片手に雑談していたりするのが右岸の船の方。官庁街に続くからだろうか。

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ナシオナル橋とベルシー橋(シモーヌ・ド・ボーヴォワール橋の次)の間が1200mと離れ過ぎていたため、工場地帯の交通の便の改善を図るため、1879年から1882年にかけて建設された。1890年に破損、1895年に再建されたものだが、最近改装されたようだ。散歩した人が休めるように、質素ながらベンチまでついている。河畔もすっかり整備され、ベイエリアとして快適な散歩ができるようになった。長さ168m(5つのアーチ:29m、32m,35m、32m、29m)、幅20m(自転車道を含む車道12m、左右の歩道4m)の石造り。シンプルだが、遠めには手すりがレースのように見えてなかなか美しい。

これといって特徴のない橋であるが、一つだけ歴史に名を残した。中央にある記念碑がそれを物語っている。私が行ったときには花束が添えられていた。曰く「パリを救うためここで命を落としたフランスの飛行士の思い出に」F.A.F.L(フランス解放空軍)飛行作戦部隊Lorraineの戦死者の名前が刻まれているのだ。

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1943年10月3日の日曜日は快晴だった。すでにドイツ軍に占領されていたパリに向けて、英仏海峡の向こう側では飛行部隊Lorraineが、ある任務を帯びて離陸準備をしていた。フランス中心部にあるオルレアンからパリへの鉄道輸送経路を断つため、変電所を爆破すること。近隣の労働者街に被害を与えないよう、投下目標はわずか長さ200m幅80m。爆弾を積み、13時過ぎにロンドン西部のHartfordbridgeを出発。パリ南西に設置されたドイツ軍管制塔を逃れ、超低空飛行でトルビアック橋の上にやって来たフランスの飛行士たちは、セーヌ河畔の散歩に来たのではない。故郷を救うために故郷を爆撃しに来たのだ。25の爆弾を投下、10のうち7つの変電所を破壊し大きな打撃を与えた。しかし、2機がドイツ軍の攻撃にやられ、うち1機はセーヌに墜落した。生き残ったLorraine作戦メンバーがHartfordbridgeに戻ったのは3時。わずか1時間半の即効攻撃だった。Lorraine隊のこの作戦からパリが本当に解放されるまで、あと8ヶ月待たねばならないが、彼らの名は(今でも)トルビアック橋にしっかり刻まれている。

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