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〜選択した記事〜

Vol.039

ノートルダム橋 2009年03月06日

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前回みたアルコル橋の約180m下流に架かっている一見地味なつぎはぎの橋。ここは古代から人々がセーヌ川を渡っていた場所である。右岸と左岸をつなぐパリで一番古い通りがシテ島の真ん中を走っている。その名もシテ通り、その両端はセーヌ川に出て、そこから反対側の岸に出る二つの橋を、川幅の大きさによって区別し、右岸に渡る橋をグラン・ポン(Grand Pont:大きい橋の意)、左岸に渡る橋をプティ・ポン(Petit Pont:小さい橋)と呼んでいた。どちらもパリで一番古くから橋が架かっていたところである。


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ローマ人がグラン・ポンと呼んだ橋は、ノルマン人の攻撃によって886年に壊されてしまう。そのあと、そこに板の橋が架けられ、ミルブレーの板橋と呼ばれて親しまれた。1406年の洪水で流されるまではそれで間に合っていたのだから、中世の牧歌的な様子が想像できるというもの。そして、1443年、シャルル6世の時代に、中世の橋はみなそうであったように住居つきの、長さ106m、幅27mのりっぱな橋が出来上がり、ノートルダム橋と呼ばれることになる。が、この橋は木製でその上に60軒もの家屋が建っていたため、長持ちはしなかった。1499年10月25日、橋の上の家が次から次へすべて川になだれ落ちてしまう。当時、大工たちの再三の忠告に耳を貸さなかったパリ市長と市長補佐は、この惨事を引き起こした責任を負わされて投獄、終身刑となった。


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次の橋は石で作られる。イタリアはヴェローナ出身の建築家ジャン・ジョコンドが設計を請け負い、1507年、6径間のアーチ橋が完成した。長さ124m、幅23mとさらに大きくなった橋の上には向かい合わせに34戸の家が建ち並び、フランス王家の紋章や男女の彫刻で飾られた豪華なファサードには金の番号がふられた。片方が奇数、もう一方が偶数と、現在パリのあらゆる通りで見かける番地のシステムがこのとき初めてできたのだ。ルイ14世の王妃マリー=テレーズを迎えるため1660年に改装されたノートルダム橋には、大聖堂に向かう王族の行列を見ようと折あるごとに群衆が詰めかけ、1786年に壊されるまで、パリのもっとも粋な場所として賑わった。


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その後、オスマン男爵のパリ改造計画により1853年に5径間の橋が架けられたが、島と岸の間の水がアーチの下でさらに狭く分かれるためか、35回もここで水難事故が続き、もとは「聖母マリア様の橋」という意味にも関わらず、皮肉にも俗名「悪魔の橋」と呼ばれるようになってしまう。そこで、真ん中の三つのアーチを一つにする計画が練られた。右岸側とシテ島側の両側のアーチはそのままで中央だけが金属製の橋が1919年に完成する。長さ105m、幅16m,真ん中のアーチの幅が60m、これが現在の姿である。


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古いアーチにはバッカスと雄羊の頭の装飾が施され、右岸側のアーチの下は河岸自動車道となっている。中世の橋に古代のオーナメント、それにつながる近代の鉄橋、そこを走る現代自動車道…奇妙な時間の混ぜ合わせ…。


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さて、この界隈は知れば知るほど興味深いところでもある。まず、ノートルダム橋の右岸側にはサン・ジャック(聖ヤコブ)の塔がある。16世紀にこの地に実存したサン・ジャック・ド・ラ・ブシェリー教会(l'église Saint Jacques de la Boucherie:ブシェリーは肉屋の意、肉屋の集会所および埋葬場所だった)が1797年に取り壊されて鐘楼だけが残ったもの。17世紀にパスカルがこの塔で気圧の実験を行った。また、ここは中世スペインの聖地コンポステッラを目指す巡礼人々の出発点だった。ずいぶん古い映画だが、ルイス・ブニュエル監督の「銀河」(’69)はやはり聖地に向けて巡礼の旅に出る二人の男の話。かなり宗教的な隠喩を含むシュールな内容だった…。


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サン・ジャック塔はパリ市が買い取ったものの、何十年もの間、汚れ放題に放置されたままだったが、2001年頃から修復する話になり、最近ようやくお化粧直しが終わったところ。パリに20年以上住む人でも見たことがないというサン・ジャック塔の白くまぶしい姿が公開された。その繊細なレースのような美しさを見ると、ここが「不吉な場所」になっていたのが不思議でたまらない。
純白の塔を背にして巡礼が歩いた始まりの道をいく。


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ブキニストのいるジュスヴィル岸からノートルダム橋を渡ってシテ島に向かうと、左手の視界を大きく遮るのが、オテル・ディユー(Hôtel Dieu:神の家の意)病院だ(Vol.0036/2009年1月参照)。中世からの病院はじつに質素で、これと言って取り柄も色気もない箱形、しかも橋から見えるのは黒ずんだレンガの後ろ姿のみ。都市計画のお偉いさんがこれを取り壊して観光客向けのものにしたい気持ちはよくわかる。が、病院関係者は断固として反対、いつもお流れになるらしい。有名デパートサマリテーヌだっていまだにずっと閉鎖中だし(Vol.1/2005年8月参照)、お金儲けだけを優先しないところがこの国のいいところかもしれない。橋を渡りきると右手に花市が広がり、その先にはパリ警察庁が居を構えている。いかめしいところに花があふれていて救われる。


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左手の重苦しいHôtel Dieu病院の壁がようやく途切れると、ぱっとノートルダム大聖堂広場が開け、その奥にカテドラル正面が見える。このまま続けて行くとプティ・ポン、次の橋となる。それを渡ると、にぎやかなカルチェ・ラタンだ。

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