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〜選択した記事〜

Vol.031

シュリー橋 2008年04月27日

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左岸はカルチェラタン。すっかりパリ中心に近づいてきた。たいていのセーヌ川クルーズ(遊覧船)コースがこのあたりで迂回する。これを読む人が必ずしもパリの地理に詳しいとも限らないと思うので、基本的なことをまずひとつ。セーヌ川は一部中州になっていて、セーヌが南東からパリに入って3分の1ほどのところに二つの島が浮かんでいる。前回のオステルリッツ橋から遠くに見えたのが、シュリー橋の通っているサン・ルイ島である。もう一つの島、シテ島にかかるポン・ヌフ(2007年6月号_Vol.022参照)と同じく、切っ先をかすめている橋が二つともシュリー橋。ただし、ポン・ヌフは両方とも最初からポン・ヌフだったけれども、こちらは昔、別々の吊り橋が架かっていたところに新しく建設されてこの名前になった。

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右岸のアンリ4世岸とサン・ルイ島のアンジュウ岸を結ぶのがシュリー橋のプチ・ブラ”Petit Bras(小腕の意)”と呼ばれ、長さ93m、幅20m、両側が石、中程が鉄筋のアーチ橋である。もう一つはグラン・ブラGrand Bras(大腕の意)”と呼ばれ、サン・ルイ島のベチュヌ岸から左岸のサン・ベルナール岸をつなぐ、長さ163m、幅20m、三つのアーチ(46m、49m、46m)からなる鉄橋である。1877年8月25日落成したシュリー橋は、当時、オスマン男爵の指導のもとに進められていたパリ都市計画の一端として建設された。バスチーユ広場からまっすぐのびる大通り(Boulevard Henri IV)がセーヌ川を斜に横切る橋で、この通りはサン・ジェルマン大通りにつながっている。

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オスマン男爵以前のパリでは、右岸側に架かっていたのがダミエット吊り橋といい、1848年の暴動で破壊された。左岸側にあった吊り橋は1638年に完成し通行料を取っていたコンスタンチン橋で、1872年に自然崩壊してしまった。そのほか、昔はサン・ルイ島のしっぽというか先っちょというか、バリー公園から右岸に桟橋が通っていた。古いパリの写真にそれが残っている。1818年に船着き場としてできた。水浴びする人たちの散歩場所でもあったのだが、何度も大水などの災害に遭い、結局1938年に取り壊されてしまった。

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毎年夏になると「パリ・プラージュParis Plage(パリの浜辺の意)」が催され、シュリー橋からポン・ヌフあたりまでセーヌ右岸の自動車道が歩行者天国となり、ビーチと化す。2002年から始まったこの催しは、仮設の砂浜のため大都会の真ん中に何トンもの砂やヤシの木が運ばれることから、エコロジー信奉者あたりの批判を買ってはいるものの、意外とバカンスに出かけられない家族連れのパリっ子や観光客には好評なようだ。たしかに、暑くなるとセーヌ河畔には裸で日光浴する人が出てくるし、歴史的に見てもセーヌ川の水浴びは数世紀昔にすでに流行っていたらしい。裸姿が近隣の住民のひんしゅくを買って1680年頃に着替え小屋ができたという。17世紀のパリの人たちの服装を考えると、街の真ん中の川で水浴びなんて、なんだか楽しそうだ。

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バスチーユからアンリ4世大通りを通ってシュリー橋を渡る手前左にアルスナル建築図書館があり、パリの歴史的建造物について知ることができるスポットだ。バスチーユ広場を背にプチ・ブラを渡ると、右手にサン・ルイ島の有名なランベール館が見え、左手がバリー公園だ。その先のグラン・ブラからはトゥルネル橋、シテ島、そしてノートルダム大聖堂の勇壮な後ろ姿など、すばらしい景観が広がる。正面にはアラブ世界研究所のモダンな建物。建築に興味がなくても、高いところが好きな人は最上階のカフェでミント・ティーを飲むといい。

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前回見たように、左岸の旧サン・ベルナール港は野外彫刻博物館となっていてそぞろ歩きに最適だ。アラブ世界研究所の隣に建っている、いつ来ても工事中のうっとうしい建物・・・このいかにも野暮な姿は、パリ第七大学(ジュシウ・キャンパス)。これはこれで、パリの一つの名所でもある! というのも、1959年、かつてのワイン蔵La Halle aux Vins(ラ・アール・オ・ヴァン)跡地にプレハブの校舎が設置されてからというもの、未だ仮校舎のままで常に物議をかもしているスポットなのだから。何かあるたびに学生たちが機動隊とぶつかり合う場所であり、2年ぐらい前からアスベスト問題のため緩い解体工事が行われているものの、その有効性が大臣より内部告発されるという始末。惨めな臓物をさらしているこのキャンパスが「科学的思想の物質化」(学長の台詞)として生まれ変わるのは、まだまだ先になりそうだ。

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