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〜選択した記事〜

Vol.037

ドゥブル橋 2009年01月07日

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もし病院に入院するはめになったら、(昏睡状態でない限り)窓から眺める景色が病中の慰めとなるのは容易に想像がつく。川をまたいで建っている病室の窓の外に水の流れと荘厳な大聖堂の一画や河岸の様子が見えるならば、退屈な入院生活もずいぶん様変わりするはずだ。さらに、建っている場所がパリのど真ん中で、川の流れはセーヌ川、大聖堂はノートルダムだとしたら? もちろん、時代は17世紀半ばのことだから設備は別にして、環境としては悪くないどころか、優雅ともいえる入院療養生活ではないか。この病棟がドゥブル橋の前身だった。


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今もノートルダム前広場にそびえる貫禄のある建物の名はオテル・ディユーHôtel–Dieu。もともと「館」、「邸宅」を意味するhôtelは「公共の建物」をも表し、Dieu とは神の意、かつて修道院が民衆のために開いた病院施設である。オテル・ディユーはフランス各地の古い町に存在するが、最初の「h」が大文字なのがパリ市立病院のこと。パリ発祥の地シテ島(セーヌ川の中州)内にあり、左岸から見ると、ノートルダム大聖堂前広場の向こう側(北側)に建っている。いかにも実務的、と思わせるがっしりした景観は、ノートルダムの華やかな前面と好対照をなしている。


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1515年、オテル・ディユー病院は、すっかり手狭となったため、左岸の川幅の狭い箇所に入院用病棟を建設することをフランソワ1世に申請した。病院のすぐ裏(北側)もセーヌ川だが、右岸に通じる北側ではなく、広場の向こう側の左岸を選んだのは、ただ南側という理由からではなかったようだ。この当時、左岸にあった隣の橋(現在の「プチィ・ポン」)が込み合っていたことから、新しく橋を造って川の上に建物を立ててしまえば一挙両得だったからだろう。橋に建物が乗っかっている建造物は、この頃ではごく当たり前のことだった。1626年になって許可がおり、三つのアーチからなる石の橋が渡され、上には2階建ての病棟が建てられた。フランス式2階建てだから、日本で言えば3階建ての天井の高い石造り。結構な高さがあっただろう。オテル・ディユー別館である。


この別館病棟の真ん中を通っていた通路(橋)はもとは病院関係者用だったが、そこを抜ければ島に渡れる。地域住民も通させてほしいと要求したが、オテル・ディユー側にしてみれば私有地なのだからスムーズにはいかず、すったもんだのあげく、ようやく通行権が認められた。もちろん有料で。歩行者一人につき、当時の貨幣で2ドゥニエ、馬に乗った者は6ドゥニエの税が課せられた。それがほかの橋の通行税の2倍だったところから、ドゥブル橋(「ドゥブル」とは二倍という意味)という名称で呼ばれるようになった。完成してすぐに橋の欄干が割れるという騒ぎもあったものの、すぐ川下の、古くからあるプチィ・ポンがつねに飽和状態だったので(現在も事情は変わらない!)、通行税を払ってもこの橋を渡りたい人は多く、病院の通路は立派に橋の機能を果たし、納められた税金は建設費に充てられた。


その後、1709年の大晦日にこの病棟兼橋は崩れてしまうが、すぐに建て直され、病人たちは1847年までセーヌ川の流れを見ながら入院生活をした。1848年になって、セーヌ川を船が航行できるように大きなアーチ一つの橋に建替えられた。1883年、鋳鉄製の、今度は建物なしの橋がかけ直され、現在に至っている(2004年に表面が塗り替えられた)。長さ45m幅20mと短く、車両通行禁止。車道用の中央部分ではよくローラースケートの曲芸の練習+デモンストレーションが行われている。


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さて、前回(Vol.036 2008年12月)からの散歩の続きをしよう。ノートルダム大聖堂の真後ろを通ってシテ島側からアルシェヴェシェ橋を渡り、そこからドゥブル橋を眺める。そして左岸5区のモンテベロ河岸をすぐ右に曲がる。ノートルダム大聖堂(右手)のまた違った華麗な横顔を少しづつ楽しみながら河岸の歩道を歩く。セーヌ沿いの古本屋ブキニストたちが軒並み店を構え、一つ一つビニールのカバーのかかった古本や観光客むけグッズを売っている。ドゥブル橋はそれにかくれて見えないが、じつに絵になる場所なので、絵はがきや写真で見知った方は多くいるはずだ。そのまま300メートルほど行く。途中、川縁まで降りてキャラメル色のドゥブル橋を下から眺める。橋桁に凝らされている意匠はなにやら日本趣味(?)。2004年以前のドゥブル橋は深緑色で、レースのようなノートルダムの前面によく映えた。わたしの好みでは、前の方が渋くてよかった気がするが、寒さの厳しい灰色の冬に暖かい色合いを添えたかったのかもしれない。


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ところで、ドウブル橋はPont au Double(ポン・オ・ドゥブル)と書く37あるパリの橋のうちで、これは例外パターンだ。つまり、これまでみてきたPont Marieマリー橋などは「○○」と「橋」の間に「~の」を表わす「de」がなく、一方、Pont d’Auterlitz オステルリッツ橋、 Pont de la Tournelleトゥルネル橋などは、橋を意味する「pont」と名前の間に「de」が入っている(Austeriltz の pont)。この違いは日本語には反映されない。外国語に興味のない方には退屈かもしれないが、ちょっと気になるので調べてみたら、「de」がつかない(Pont Marie)例は全部で18、冠詞なしの名前や地名にdeまたはd’(母音が続く場合)のつく例が9、冠詞つきの名前や地名に「de」(場合によってdu, de la, de l', desとなる)がつく例は8あった。それに対し、Pont au Double(ポン・オ・ドゥブル)のように「de」ではなく「a」がつく例は(auは定冠詞àに男性名詞leが続いたも)数あるセーヌの橋の中でもたった二つだけだった。


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どちらも「・・・の橋」という意味合いになるが、大雑把に言ってdeは由来を示し、aは目的を示すというように、その使い方が違う。冠詞の問題は難しい。かなりのガクモンを要するので、ここではあっさりあきらめて、二つの例外すなわち、Pont au DoubleとPont au Changeシャンジュ橋がほかとどう違うのかをちょっと考えてみたい。これはシャンジュ橋の頃までの宿題ということで。

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